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お願いバレンタイン

2月上旬。

その日、彼女は唐突に現れた。

「チョコレートケーキを焼きたいの。」

玄関先でそう繰り返すシュガーを前に、自称自宅警備員のグラディウスは大きく溜め息をつく。

大晦日から正月にかけて、彼女の姉であるモネとの仲直りや、散らかった部屋の片付けまでをこなしてやったためか、やけに懐かれてしまっていたようだ。

「俺はケーキは焼かねぇ。」

「いいえ。あなたなら焼けるわ、グラディウス。」

「はあ?」

「だって、ドフィおじちゃまがおっしゃっていた。自宅警備員というのは、なんだってできる可能性を持って生きている者たちに与えられる称号だと。」

表情一つ変えずに言葉を紡ぐ、幼い顔立ちの少女。小中学生にも見紛ごう出で立ちのシュガーは、そのまっすぐな瞳でグラディウスで見つめ続ける。

その視線に、絶対的な意思の強さ感じ取り、彼は大きな溜め息をついた。

表向きは自宅警備員だということになっている彼だが、実際はドンキホーテ社に歯向かう人物の暗殺を行う後ろ暗い大人である。

まだ幼いシュガーには全てを話してはならないというモネの教育方針により、自宅警備員などというなんの名誉にもならない役職を与えられた。

どうやらそこに主人である、ドンキホーテ・ドフラミンゴ(若様)が悪乗りしたようだ。

「悪いがおチビ、どうごねられてもケーキは焼けない。そんなに器用じゃ…」

「それじゃダメよ、グラディウス。ケーキを焼けない警備員なんて、自宅に必要ないもの。」

どんな理屈だこの野郎。

この子がモネの妹でなければ、若様のお気に入りでなければ、でこっぱちに中指を打ち付けてやるのだが─仮にそんなことをすれば自身の立場も悪くなる。

かといって、ケーキ作りなんてお花畑なことを引き受けるのはどうしても嫌だった。

キメの細かいメレンゲを泡立てるより、スポンジに串を刺して焼き加減を確かめるより、大型ショッピングモールのフロアごとターゲットを爆破するほうがずいぶんとやりやすい。

「俺を頼るくらいなら、お菓子教室にでも通えばいいだろ。」

「嫌よ。めんどくさい。」

「めんどくさいなら買えよ。カウンターに金を積んで、特注でもなんでもしてもらえ。」

「金を、積む?」

抜粋した言葉を繰返し、小さく小首を傾げて、大人のように眉を寄せるシュガー。

どうやらその言葉は彼女にはまだ早かったらしい。世間知らずだからか、年齢的にそういうものなのかはわからない。

とりあえず、自分が要らぬ知恵をつけさせたことを知られては後で凍結させられかねない。

「いや、金は積むもんじゃない。使うものだったな…。」

冷や汗を額に滲ませながら、とりあえずリビングにあげることにする。若様の帰りを待っているだけの生活も割りと暇なため、シュガーの相手をする余裕はあった。

「ジュース飲むか?」

「ブドウ味にして。果汁100%のものに限る。それ以外は捨てて。」

シュガーはあいも変わらず淡々と言葉を紡ぐ。

なにもわざわざ捨てることはねぇだろ、と突っ込みを入れながらも、濃縮還元ではあるが一応果汁100%のブドウジュースを差し出すことができた。

ソファーに深く腰をかけ、紫色の液体をストローで啜りながら、床につかない足をバラバラに動かすシュガーの姿は本当に子供っぽい。

マグカップを手にしたグラディウスは、ソファーから少し離れた位置からそれを眺める。

なんとかうまい具合に騙して、今日はお引き取り願おうと考える彼だったが、女の子の勘はすばらしい。

「画策しても無駄よ。あなたがやると言うまで帰らない。」

「…なっ。」

「男なんて単細胞の生き物だと、モネが言ってたわ。」

それは恋愛においてのことではないか。使いどころを間違えているのではないか。

動揺と混乱の中でわりと冷静なことを考えながらグラディウスは口ごもる。

ケーキなんて作れない。ただ、一緒に作ると言わないと彼女は帰らない。いつまでも家においておくのは嫌だ。だいたいなんで俺が…

堂々巡りなことを考える。

わかっているのだ。原因は正月に散々世話をしてやったからだ。

二人が色違いの振り袖を着て初詣に向かう間に部屋を片付け、掃除機をかけ、床やテーブルを拭いた上に、戻ってくるまでに汁粉を用意してやった。

汁粉を食べた後、ソファーに座るモネの腕の中で寝てしまったシュガーをベッドに運ぶ役目をやらされた後、風呂掃除。

大掃除もやっていないようだったので、二人が眠っているうちに仕上げておいた。

昼過ぎに起きてきた二人に雑煮やお節をふるまい、シュガーにお年玉を手渡し…

二人が羽子板をやっている横で、モネの愛車とシュガーの自転車を洗車して。

そこまで思い出したところで彼はやっと気がついた。お世話を焼きすぎたのだ。

あの時はモネが戻ってきて大喜びのシュガーのために、思い付く範囲でモネの用事を代わってやっただけのつもりだった。

きっと若様もそれを命じるだろうと思ったからだ。

だが、ここまでやってしまえば"ただの気の利くいいヤツ"で、"なんでもできる都合のいい存在"にもなりかねない。

というより、すでにシュガーの中ではグラディウス=自宅警備員=便利屋さんなイメージが定着しているのだろう。

そうでなければ『ケーキを焼こう』なんて言い出すはずがない。

やってしまったことをどうにかすることはできない。

国会議事堂を爆破したとき、ラオGにこってこてに叱られたことがあったが、今現在グラディウスはその時以上に後悔していた。

普通に考えれば、すでに彼のスキルは一般的な主婦を越えるレベルであり、ちょっとかじれば簡単な菓子の一つや二つも作れるようになりそうなものだが──当人は『俺みたいな不器用なヤツには…』と真面目に考えているのでどうしようもない。

そこで思い出したのはベビー5。

頼めばなんでもやってくれるし、なにより彼女は正真正銘『女子』だ。

ここに妙案ありと、柄にもなく嬉々した声をグラディウスはあげる。

「おい、シュガー。ケーキ作りなら、俺じゃなくてベビー…」

「ヒッ」

ベビー5の名を口にしようとしたところで、シュガーは小さく悲鳴をあげた。カタンと空になっていたグラスがカーペットに落ちる。ストローから垂れた紫が、繊維に染み込む。

果汁汚れの染み抜きの大変さを知っているグラディウスは一瞬怒声を上げそうになるが、グッとこらえ怯える彼女の様子をうかがう。


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