アクアリウム
上司の送別会の後。
どうせ待っている人もいないのだから飲み直そうと言い出したナミに連れられ、イオナがやってきたのはいつもバー。
通いなれた店であるにもかかわらず、イオナはいつだって扉を開く前に一度小さく深呼吸する。この店にくると必ず緊張するのだ。
「おつかれー、サンジくん。」
「こんばんは。これ、差し入れです。」
ナミに続いて挨拶を済ましたイオナは、サッと煙草を差し出す。もちろんそれは彼の好きな銘柄のもの。
非喫煙者のくせにいつもバッグに煙草が入っているのも、タスポを所持しているのもこのためだ。
バーテンダーなんてホストの次に惚れちゃいけない職業の男だと思う。それでも、一度患ってしまった想いは、残念ながらなかなか消えてはくれない。
「いらっしゃい。ナミさん。
イオナちゃん、いつもありがとう。」
煙草を受け取る彼はふわりと微笑む。その表情に、イオナの胸はキュンと音を立てる。いつもの営業スマイルだとわかっていても、意識してしまうのだからどうしようもなかった。
「サンジくん、いつもの食べたーい。」
ねだるナミの言葉に「よろこんで。」と優しく答え、同じもので言いかと問うてくる彼のスマイルはあいかわらず煌めいている。
イオナはただ頷きで答えた。否、ドキドキして言葉がでないのだ。
いつも通り、それじゃあ待っていてねと微笑み、料理を始めるサンジ。彼女はその背中をジッと見つめていた。
●○●○●○●○●
ナミのお友だちであるサンジがこの店をオープンしたのは2年前。カウンターに10席と4人がけのボックス席が4つある店内は、一人でまわすには少し広めであるものの、スタッフは彼一人。
深海をイメージした青い照明と、波の音が響く落ち着いた店内が評判で…
というのは雑誌などに載るときの建前だ。実際の、一番人気は店長であるサンジ、その人なのだろう。
彼が作る料理は、こだわりがあるのが一口頬張っただけで伝わってくる、そんな特別感のあるものばかりだ。
「綺麗。」「おしゃれ。」「美味しい。」
ここにくるのは素人染みたコメントしかできないような、普通の女の子たちばかり。それでも彼は手を抜かず、もちろん必要とあらば料理の説明も欠かさない。
目に見えてわかるストイックさが人気の理由だろう。
それともう一つ。
「ねぇ、サンジくんっ、私に合うカクテルちょうだい♪」
突然の甘ったるい声にイオナは顔をしかめる。
媚びるような声をあげたのは、カウンター席の端に座る若い女性客だ。イオナたちもまたカウンターの端に並んで座っているので、近からず遠からずの距離だ。
サンジはこの声に素早く反応し、シェイカーを手に取った。無駄のない動作でアルコールとシロップ、氷をそこに注ぎ込み、滑らかに腕を振り始める。その姿は瞬きを忘れるほどにカッコいい。
出来上がったカクテルを三角形のグラスに注ぐと、スッと差し出し決め台詞。
「愛らしい瞳の君にはこのカクテルを。」
酔っぱらってる時というのは、このくらい臭い台詞の方がキュンとくるものなのだ。
おちんちんがついていなくて、おっぱいのついている。通称、女の子と呼ばれる生き物に対しては、どんなときも平等に優しい。
そんな彼は本当によくモテる。
「あの娘、サンジくん狙いね〜」
隣から聞こえた呆れたとでも言いたげな声に、イオナは「だね。」と短く返事を返す。
カクテルを受け取った客は、ポッと頬を染め、「やだぁ」なんて甘ったるい声を漏らした。谷間を強調し、女の子らしさを演出するつもりなのか身体を左右に揺らす仕草は本当に雌っぽい。狙っている感MAXだ。
そんなフェロモン全開肉食系女子を、相変わらずの笑顔で接客を続けるサンジ。二人をジットリとした目で観察しながら、イオナはキープしていたボトルの酒を口に運んだ。
●○●○●○●○●○●
ナミは熱心にスマホで誰かとやり取りをしていて、会話のできる様子ではない。完全にぼっちと化した状態で、イオナは黙々とグラスを口に運ぶ。
「なにかお悩み?」
気がつけばイオナらの正面に立っていたサンジは、開封してある煙草があるにもかかわらず、先ほど彼女が手渡したものを開封し吸い始めた。
この「わざわざ」の行為が女心を擽る。
私のあげた煙草が煙となり、空気と共にサンジくんの肺に運ばれ血流に乗って身体の隅々まで…
バカみたいなことを考えてしまうのは酔いのせい。イオナは心に蓋をする。
そっけなく「別に。」と答えてみるけれど、彼の放つ温かな眼差しが痛い。ばつが悪くて、トイレのドアがある方へと顔を向けた。
トイレのドアの隣にあるのは両手を広げたくらいの大きな水槽で、その中を悠々と泳いでいるのはきらびやかな魚たち。というわけではなく─
珍しい古代魚だ。
ふてぶてしく黄土色のナマズのような風貌。魚のくせに、足のようなものまで携えている。水槽の底にどでんと居座る様子は本当に愛嬌がない。
そんな彼の瞳は、吸い込まれそうなほどに深い黒。一見大人しそうに見える風貌だが、その瞳だけはやけにギラギラとしていて、荒々しさを感じさせられる。
そんなこの子がお気に入りだった。
「あの子、ご飯食べた?」
まるで取って付けたように話題を変える。彼もそれ以上追求してくるようなことはせず、「まだだよ。」と答えた。
「今、あげてもいい?」
「どうぞ。」
頼む必要もなく、サッと差し出されたおしぼりを受けとる。一瞬触れ合った指先がジンジンと熱を持った。
それでもなに食わぬ顔をするのは、ナミの手前か、それとも自分は他の女の子とは違うのよアピールか。
イオナ自身も理解していなかった。
席を立つと水槽に歩み寄る。購入したときよりずっと大きくなった古代魚にとって、この水槽はすでに窮屈そうに思えた。
「こんばんは、古代魚さん。」
声をかけつつ水槽の蓋を開けると、彼はかすかに顔を持ち上げ、瞳の奥を光らせる。餌がくるのを待っているのだ。
当たり前に餌がもらえる環境で暮らす生き物は、探し回って無駄に体力を消耗したりしない。
与えられるその瞬間を、どーんとした態度で待ち構えている。
彼のこういうところが好きだった。
イオナはその隣にある小さな水槽の蓋もあけた。アクアリウムに適したサイズの、少し賑やかな水槽だ。
中を泳ぐ色鮮やかな魚たちは、ずいぶんと賑やかだ。
小さな身体で餌を奪い合い、縄張り争いに精を出し、時には交尾する相手を追いかけ回す。
普通の人からみればなんともない光景なのだろうが、イオナからみればガツガツしすぎているようにも見える。落ち着いた古代魚の隣にいるせいから尚更だ。
「また赤ちゃんが生まれたんだ。」
少しだけ嬉しそうなサンジの声に「そう。」と返事をし、魚たちには「ご苦労様。」を告げる。
この天真爛漫に泳ぐ綺麗な魚たちが、ふてぶてしい古代魚の餌だなんて、普通の女の子なら気がつかないだろう。
「あの小さなお魚なあに?」
案の定、甘ったるい声の女が食いついた。
「あの魚はね、プラティと言って…」
その説明は1年半ほど前に私が彼に聞かせたものだ。一語一句違わない。私が彼のために調べ覚えた言葉たち。
「へぇ、すっごくかわいい。」
うっとり。まさしくそんな声だ。この水槽をレイアウトするのに、掃除するのに、どれだけの時間が掛かったと思っているんだ。そう言ってやりたい。
イオナは棚から網を取り出すと、水槽に沈む流木や水草を倒さないよう慎重に生き餌を掬う。
指先に触れる水の水温は28度。
気温だと程よく感じる温度であるにも関わらず、水温となると少し冷たい。
網の中で足掻く赤いプラティ。
その子はポチャン。と音を立て、大きな水槽に移される。初めての環境に驚き戸惑い、大袈裟に動き回る姿は実に滑稽だ。
その結果、古代魚にパクっと飲み込まれてしまう。
野生の魚ならともかく、飼育されていた温室育ちの彼は、まさか自身が大袈裟に動いたことで捕食者を誘惑してしまっただなんて思ってもないだろう。
自身の愚かな行動によって命を落とし、そして、捕食者の血となり肉となるのだ。
イオナはそれを見るたびに思う。自分はこんな愚かな行き方はしたくないと。
そこで聞こえてくる、「やだ。食べちゃった。怖ーい。」という、怯えたフリをした甘え声。
怖いなんてのは本心ではなく、サンジへのアピールだろう。ナミが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
『おいしい?古代魚さん。』
心の中で声をかける。彼は相変わらずふてぶてしかった。でもそれでいい。媚びるような奴はうんこになる運命なのだから。
網を元の場所に戻し、水槽の蓋をした後、おしぼりで手を拭く。小さな水槽では仲間が一匹減ったというのに、すでに平穏が戻っていた。
まるで人間社会の縮小図のようだ。
「あの魚やだー。かわいくなーい。」
まるで小魚のように大袈裟にアクションを取る。彼女はサンジさんに補食されたくて必死なんだ。
意図的にそれをやるとはバカバカしい。
「でも、あの魚はとても珍しいんだよ。」
まるで小さな子を諭すように優しく説明を始めたサンジへと向け、イオナは深い溜め息をつく。
彼をうっとり眺めるあの娘のように、私も補食される側としてのアピールができたなら。
いや、できたからなんなんだ。
一時的に補食され、骨抜きにされ、そして捨てられるその日がくるなんて、まっぴらごめんだ。
このままでいい。
自分にそう言い聞かせながらも、イオナはそれがやせ我慢であると自覚していた。
それでも─
恋人募集中だ。モテないんだ。と空腹のフリをして、自身に群がる女性を選別しているサンジの姿は、餌を狙う古代魚そのものだ。
ベッドに持ち込み身体を重ね、そしてすべての行程が終わればそれでおしまい。そんな素振りもみせないで、また次の餌を優しい笑顔を浮かべて待ち続ける。
食い散らかされる一人になるのだけは嫌だった。そんな安い扱いは受けたくなかった。
席に戻ったイオナはまたグラスを口に運ぶ。
どこかの水族館にいる、何年も絶食してるなんちゃらグソクムシだって、人知れず、こっそりとなにかを食べてるに違いない。
そのくせ食べてませんよ。と飼育員に印象づけて、もっと高価なものを求めてるんじゃないか。
まるで「私、男性恐怖症で」とか言ってる、くそ女みたいじゃないか。クソ。クソ。クソ。
自分にないものを恨んでいる訳でもない。もちろん妬んでなんていない。けれど、彼女はそんな全てを認められなかった。
飲み足りないからイライラするんだ。
イオナがグラスの氷をクルクル回していると、隣でナミが呟く。
「あんな女に鼻の下伸ばしちゃって、ほんっと見る目ないわ、アイツ。」と。
確かにその表情はデレッとしているようにも見える。けれど、彼のあの表情も意図的に作り出されたものだとイオナは確信していた。
今はまだ見極めているだけ。
あの娘が旨いかどうか、選別しているだけ。
簡単に惚れたり、逆上せたりするわけがない。
それが捕食者のやり方なのだ。
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