Mission's | ナノ

隣人トラブル!?

最初、なにが起こっているのかわからなかった。それはただただ唐突で、衝撃的で、恐怖を覚える余裕もないほどにあり得ない出来事。

それでいて動揺しない理由は、一目見た瞬間から彼女が見知った人間であると理解出来たせいかもしれない。

トイレへと向かおうと寝室から出たエースは、廊下に一歩踏み出した位置で立ちすくむ。寝室のドアから伸びる廊下は一直線。 正面にあるのは玄関だ。観葉植物などを置く趣味のない彼にとって、脱いだ靴をそのままにするいい加減さのない彼にとって、障害物などあるはずのないタイル張りの玄関。

そこで女性が俯せに倒れている。

たたきに投げ出された太股は派手に露出しており、ストッキングは爪先からふくらはぎにかけてやぶれている。きっと、裸足で歩いたのだろう。それを決定付けるかのように、両の手にはそれぞれ赤いヒールをにぎっており、その両腕は乱暴に頭上に投げ出されている。

まるでこの場でのたれ死んだかのような有り様だ。

挙げ句、ドアはわずかに開いたまま。

シュールなような、コミカルなような。それでいてどこかホラーな現状。普通の人間なら腰を抜かしてもいいようなシチュエーションだったが、エースは違う。彼はその位置から動くことなく、呆れた顔をしてその女性を見つめていた。

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エースが初めて彼女に会ったのは、引っ越しの挨拶の時。荷物を運び入れる前日、「お騒がせします。」と挨拶をした際に、顔を合わせている。

最初の印象としては、『自分より少し歳上だろうな。それにしても、やけに色っぽい女性だな。』という思春期中学生のようなものだった。

それもそのはず。玄関のチャイムを鳴らした数秒後に現れた彼女は、下着なのかネグリジェなのかわからないキャミソール姿だったのだから。

目のやり場に困ったエースの挨拶を聞いた彼女は、その表情に倦怠感をにじませなら「へぇ。」と吐息を漏らす。自分の名を名乗ることもしないで。

本人は特に意識していない風だったが、その湿っぽい息遣いはどうにも妖艶で、気だるそうに髪をかきあげる仕草にはドキリとさせられる。

さして美人といった容姿でもないのに、こうも引き寄せられてしまうのは、欲情的な仕草や息遣いのせい。そういった職業の人なのだろうかと疑ってしまうほどに、しなやかな女性らしい動きのせいだった。

その後も、何度か朝のエレベータで遭遇しており、また帰宅時刻も被ったことがある。

その時の彼女はオフィスレディとして問題のない服装をしており、最初に見せたような気だるげな表情は浮かべていなかった。それが仕事用の顔なのだろう。

けれどその艶やかさにおいては隠しきれておらず、オフィスでパソコンを叩いている事務員というよりは、ドラマなどでよくみる『曰く付きの秘書』といった印象を与えられた。

挨拶の度に彼女のよこす目配せがどうにも苦手で、エースは無意識に俯いてしまう。妙にどぎまぎしてしまって、エレベータという密室では窒息死してしまいそうになる。

そんなエースに対して、彼女はどんな風に思っているのか。特別声をかけてくる訳でも、なにか仕掛けてくるわけでもなかったのだが──。

苦手な部類の相手。それが知らぬ間に玄関で倒れている。廊下がアルコール臭い原因は100%彼女で、彼女が倒れている原因は100%アルコールだろう。

「おい…」

エースはその位置から動かず『お隣さん』に声をかける。当然のことながら彼女からの反応はなく、顔をしかめることしかできない。

一歩踏み出してみる。

突然動きだしやしないか、騒がれやしないかと慎重になりながらも、なんとなく呆れていた。女性が泥酔というのもあれだが、他人の家で寝こけるのはもっとあれだ。

「あの…」

お隣さんに歩み寄ったエースは、もう一度慎重に声をかけるが彼女からの反応は当然ながらなし。

さて、どうしたものだろうか。

というよりまずは…。エースはお隣さんをスルーしてトイレに向かう。緊迫した状況であれ、予想外の展開であれ尿意は誤魔化せなかった。
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こんな仕事やめてやる!

怒りに任せてセクハラ上司を突き飛ばしたイオナは、会社を飛び出した。辞表提出、仕事の引き継ぎといった、正式なやり取りはしていないが、そんなことはどうでもいい。もう関係ない。

男のいる職場はダメだ。いつだって上手くいかない。大抵、性の対象として晒され、嫌な思いをさせられてしまう。

自分が自分で思っている以上に艶やかな雰囲気を醸し出してしまっていることに気がついていないイオナは、それを上手にコントロールすることが出来ず、はたまた開き直ることもできず、結果的に食い物にされそうになる。

「ちんこでものを考えてる訳!?」

道端で思わず叫んでしまう。道行く人たちがこちらを振り向いたが、かまうものか。会社を辞めた以上、もう二度とこの辺りにくることはない。

「くそ、くそ、くそ…」

なんで。どうして。私が…

確かに昔から男運はなかった。基本的にナンパな男に言い寄られることが多く、安易に身体を開くように求められた。当然のことながら、その都度丁重にお断りして来たが─それにしても、だ。

イオナは昼から営業しているバルに入ると、ジョッキビールを注文する。気のいい西洋人の店員のカタコトの接客に、少しだけ気持ちがなごんだ。
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あれからどれだけ飲んだだろうか。

イオナは重い瞼を持ち上げる。玄関まではなんとか帰ってこれた記憶がある。玄関の鍵が何故か開いていて、そのままぶっ倒れた。もしかしたら、田舎の母が遊びに来ているのかもしれない。

仕事のことなんて話そうか。
いっそ田舎に帰って─

そこまで考えたところで、人の気配を感じた。固いフローリングに頬をつけて眠っていたせいか、身体のあちこちが痛い。それでも無理矢理顔をあげ、慎重に周囲を見回したイオナ。彼女の目に映ったのは─

「エース、くん!?」

人見知りが手伝って、会話が捗らなかったお隣さん。 挨拶にきてくれたのに、こちからは名乗ることもできず、適当にあしらってしまった相手。エレベーターで顔を会わせる度に気まずい雰囲気になってしまった…

その人が玄関のすぐそばにあるトイレのドアに背中を預け、寝こけている。どうして私の部屋に…じゃない!!!!

イオナはここでやっと自分が間違った部屋に入ってしまったのだと気がついた。

どうしよう…

困惑と緊張で冷や汗が全身の毛穴から吹き出す。意図したものではないとはいえ、異性の部屋に勝手に入り込むなど言語道断だろう。きっと彼も心底困ったに違いない。

どうしよう。どうしよう。どうすれば…
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やっと起きたか…

エースが顔をあげると、『お隣さん』は困ったような、泣きそうな顔をしていた。よほど多くのアルコールを摂取したのか、顔も少々浮腫んでいる。

さて、なんと声をかければいいのかわからない。とりあえず、「どーも。」と声をかけると、彼女は曖昧な表情のまま「おはようございます」と呟いた。

そこに普段の妖艶さは微塵もなく、どこか親しみやすい雰囲気が滲み出ている。これまで息が詰まると感じていたのは嘘のようだ。なんだか変な感じもするが、とりあえず立ち上がったエースに合わせて、彼女もまた立ち上がろうとする。が─

「ギャッ!」

無理な体勢で寝ていたせいだろう。潰された蛙のような声をあげ、転げそうになる『お隣さん』。エースは反射的に手を伸ばすが、彼女はさらにその手に対して驚いてみせ、小さく悲鳴をあげて尻餅をつく。

「ご、ごめんなさい…」

何に対して謝っているのだろうか。彼女は、今にもパンツが見えそうになっている事にすら気がついていないらしい。エースは慌てて視線を伏せる。

「別に…いいんですけど…」

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい…」

泣きそうな声で謝るお隣さん。名前も知らない相手を一晩部屋に泊めたと聞けば聞こえは悪いが、あくまで彼女は玄関で勝手に寝ていた訳で。

目を離して(防犯、身体的な意味で)何かあったらいけないと思い廊下に居たのは確かだが、当然ながら手は出していない。

後ろめたい気持ちのないエースからしてみれば、彼女はただの謎でしかなく、繰り返し謝られたところでどうにかなるものでもない。

「あの、それより…」

エースは話を変えるべく、あえて慎重に切り出してみた。

「はい?」

「俺、あんたの名前知らないんだけど…」と。

イオナは一瞬呆けた顔をしたあと、顔を真っ赤に染め上げた。その表情があまりにあどけなく、愛らしく、普段とのギャップに緊張の糸がほどけていく。

思ってたより普通の女の子なのかもしれない…

関わりを持たないようにしていた相手に対して、突如として沸き上がった興味。寝不足のせいか、はたまた好奇心のせいか。

エースは衝動的に口にしてしまう。

「暇なら、コーヒーでも飲んでいきますか?」

素っ気ない言い方ながら、気遣いを感じさせる言葉選び。毒気もイヤらしさもないエースの真っ直ぐな問いかけに、イオナは小さく頷いた。


END


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