Mission's | ナノ

おバカとおバカ

『友達の結婚式に行ってくる。』

イオナはそう言って出ていったが、今日の外出の目的は、本当にそれだったのだろうか。

スマホを握りしめていたキッドは、思わずその画面を握力で割ってしまいそうになる。

もうそろそろ買い換えようかとは思っていたが、ショップにて「握力で画面が割れました」とはさすがに言いづらい。きっと店員も曖昧に笑うだけだろう。

どこか冷静にそこまで考え、無意識のうちに手に込めていた力を解くと、今度はそれを取り落としそうになった。

「くそッ…」

シーンと静まり返る空間で一人悪態をつく。

いつもなら、恋人であるイオナの楽しげな笑い声が響いているこの部屋。

なんの用事もないくせに「ねぇねぇ。」と話しかけてくる彼女を疎ましく思った日もあったが、こうしてイオナが留守になると酷く淋しい。

だからこそ、帰ってきたら一緒にワインでもと思い、チーズやらハムやらをコンビニで調達してきたというのに…

イオナは朝に出掛けていったきり、日付が変わるこの時間まで帰ってこない。その上、LINEは既読すらつかず、電話の一本もない。

普段からこまめに連絡を取り合う仲なだけに、音信不通であること自体を心配に思うし、見えないとこにいる彼女の行動に不安も感じる。

キッドは今しがた破壊しそうになっていたスマホを操作し、イオナの番号にかけてみる。

繰り返される呼び出し音。
ワンコール鳴る度に胸が軋み、痛みを覚える。

イオナは、浮気ぐせの酷かった彼が初めて夢中になった女だ。これまでは放っておくばかりの恋愛だったが、(前途にあったように)彼女とは事細かに連絡を取り合うようになった。

スケジュールもほとんどキッドが管理しており、通帳や印鑑の類いもすべて預かっていた。

その理由は、イオナの頭がかなり悪いから。

どのくらい悪いかというと、「風俗行くくらいなら、元カノとエッチしたらいいのに。なんでって?え?だって、もうすでにしてるもん。今さら平気だよ。」とか言ってしまうほどにおバカだ。

女の方に未練があったらどうするんだと聞いても、「え?そんなことってあるの?別れてるのに?」とポカン顔。

あまりに話が伝わらないことに焦り「自分の男が見えないところで、昔好きだった女に会ってても平気なのか」と要点だけをまとめてみても、「え?今は私のこと好きなんだよね?なら大丈夫だよ。」などと宣う。

この発言をはじめて聞いた時、自分に自信のあるタイプなのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。

彼女の主張をまとめてみると、時系列という概念は放置で、"行為した相手の人数を増やすこと"のみに着眼点をおいているらしかった。

この逆の発想で言えば、イオナ自身も元カレとの行為は浮気と認識していない可能性がある。もし結婚式で再会した男とお楽しみしていたとしたら…。

実際のところ、そのような発言をした時点で「まずい」と感じるべきだったのだ。「不思議ちゃんかわいい」「俺がそばにいてやらないと」などと能天気な結論に至ってしまったところでまずかったのだ。

後悔が押し寄せる。

イオナの頭の悪さを思えば、人の集まるイベントになど一人で参加させてはならなかった。せめて送迎くらいはしてやれば。

どこか保護者的観点でものを考えてしまうキッド。彼にここまでの責任感を持たせることができるのは、後にも先にもイオナだけだろう。

彼はテーブルの上にあったマグカップを手に取る。すでに冷めた珈琲を口にするが、この瞬間に陶器のそれが取っ手を残して破損した。

どうにも握力が強すぎたらしい。

チッと舌打ちした後、零れた珈琲を拭くためのタオルをどうにかしようとしたところで、玄関のドアノブがガチャガチャと音を立てた。

「なんだ?」

イオナには鍵を持たせている。ちゃんと無くさないように、チェーンでパーティーバックにくっつけておいたはずだ。それなのに──

キッドは珈琲が付着するのも構わずマグカップの破片を素足で踏みつけ、玄関に向かう。ジャリジャリと音を立てたが、足の皮がずいぶんと分厚いのか怪我はしていないようだ。

短い廊下を進み、玄関のドアの前に立つ。

そこでリビングにモニターがあったことを思い出したが、もう遅い。小さく舌打ちをした後、覗き穴から外をうかがう。

途端に全身の血が煮沸した。

何故ならそこには、ずいぶんと頬を紅潮させたイオナがいたのだから。

先ほどまでは確かに疑っていたし、腹も立っていたはずなのに、その顔を見た途端に「帰ってきてくれてうれしい。」という気持ちが沸き上がる。

慌てて玄関の鍵を開けようとして、施錠し忘れていたことに気がつく。ならばどうしてイオナは素直に部屋に入ってこないのだろか。

一瞬悩みはしたが、今はそんなことはどうでもいい。彼は浮き足だった気分で、外からガチャガチャされ続けているドアノブを握る。

早く抱き締めたい。

その想いを込め、勢いよくドアを押し開くキッド。途端にドンッと鈍い音が響き、かえるの潰れたような声が響いた。
………………………………………………………………

額が痛い。ついでにほっぺも…

眠り馴れたベッドの上で目を覚ましたイオナは、二日酔い以外の様々な痛みに顔をしかめる。隣から聞こえる豪快なイビキによって、ここがキッドと自分の愛の巣であることは理解できたが、それではこの身体(主に頭部)の痛みはなんだろう。

ゆっくりと上体を起こした彼女は、騒音の元凶である恋人の鼻を摘まむ。うぐっと情けない声をあげた彼は、寝苦しそうに顔をしかめたが眠りを続行する。

それもそうだ。彼が呼吸に利用しているのは、鼻ではなく口なのだから。

「ねぇ、キッド。起きて…」

「んがぁ…」

「ねぇってば…」

キッドの身体を大きく揺するイオナ。それでも彼は微動だにしない。途端に彼女の目の色が変わった。

「ねぇ、起きないとタマタマ潰しちゃうよ?」

そう言いながらイオナの手が彼の股間へと伸びる。その手がそこに触れるか触れないかのところで、キッ ドは飛び起きた。まるで計っていたかのようなタイミングに、彼女は満足顔。

「お前、今本気だったろ。」

「起きてたの?」

「いや…。殺気で目が覚めた。」

以前にも同じことがあったのだろうか。キッドは自身のそれが無事であるかどうかを、パンツの中を覗きこんで確認。ふぅと安堵の息をつく。

「あのね、キッド!私、頭が痛いの。」

「あぁ。だいぶ酔ってたからな。」

「酔ってた?それだけでほっぺも痛くなるの?」

「あぁ。当たり前だろう。」

実際には、ドアに額をぶつけて気絶したイオナを『言葉通りの意味』で叩き起こそうと、何度もビンタしていた結果なのだが(彼女から男物の香水の香りがしたというのも一因だった)──キッドの言葉に彼女は納得したように黙りこむ。

「昨日はなんで連絡を寄越さなかった。」

まるで取り繕うように真面目な口調で彼は問うた。イオナはしばらく考えた後、「あぁ、そうか。」と腑に落ちた顔をする。

「私、スマホ忘れてたんだ。だからキッドから連絡がこなかったんだ…」

「は?」

「どうしてスマホ忘れてるよ。って連絡くれなかったの?私、キッドから連絡なくて、悲しくて…」

イオナはシクシクと泣き出す。スマホを忘れていたのだから、連絡などつかないだろう?と、たじろぐキッドをよそに、彼女は話しを続けた。

「私、キッドから連絡がないから、どうしてかな?って、不安で、お酒がぁ…捗ってぇ…」

それでなくても腫れた頬が痛々しいのに、彼女は顔をぐちゃぐちゃにして泣きじゃくる。その様子はまるで子供のようだが、キッドは馴れたものだ。恋人の頭を撫でながら、どこにスマホを置いているのだろうかと考える。

何度も鳴らしたのだから、家にいた自分がその存在に気がつかない訳がない。つまりは、音の漏れない場所。なおかつ、目の届く範囲にはない。

記憶を遡り、彼女の行動パターンを予測する。

キッドにとって、イオナをフォローするのは日課のようなものだった。

そして導きだされた答えは──
………………………………………………………………………

浴室。

「泥酔してごめんなさい。」「疑ってごめんなさい」を繰り返すイオナを抱き抱えるようにして、浴室へと向かったキッド。そして彼が目にしたものは、浴槽に沈む彼女のスマートフォンだった。

「なんでこんなとこに…。」

イオナのそれは、防水性はない。浴室に持ち込むなど言語道断だが、彼女の行動を理解しようとするほうが難しい。キッドは半分諦めつつそれを拾い上げ、イオナに手渡した。

彼女は手の甲で涙を拭いたのちに、それを両の手で握りしめ、絶望的な声をあげる。

「壊れてる…。なんで?」

「なんでって、お前。」

「だって、ちゃんと防水スプレーかけたんだよ?水を通さないって…」

真剣に訴えるイオナをかわいいと思ってしまうのは何故だろう。キッドは壁に頭を打ち付けたい気持ちをなんとか理性で堪え、するべき質問を投げ掛ける。

「イオナ。昨日、お前から男物の香水の匂いがしたんだけどよ…」

「うん。それで?」

キッドにしてはずいぶんと物腰やわらかな言い方だったのだが、イオナはそんな彼に意識を向けない。スマホが水没したことがよほどショックだったのか、はたまた彼が下手にでるのはいつものことなのか。

「いや、それでじゃなくて。あれ、誰のだ?」

「誰のって、別に?」

この反応は酷い。思わず壁を殴ってしまうが、タイルのおかげて音は抑えれた。キッドは小さく深呼吸した後、ダイレクトに投げ掛ける。

「浮気か?」と。

緊張で握った拳が震えた。こんな風にストレスを感じることになるとは。イオナを真っ直ぐに見据えると、彼女は「えっ?」とキョトン顔。

「えぇっと…、キッドが浮気したの?」

「いや、そうじゃねぇ。そうじゃなくて…」

どうしてここで一から説明しなくてはならないのだろうか。すべてを投げ出したい。どこかの土手を絶叫しながら走り抜けたい衝動を堪え、必死に言葉を紡ぐ。

「なんでイオナから男物の香水の匂いがした?男と一緒に居たんじゃないのか?」

「あれ?言わなかったっけ?」

「ん?」

「幼馴染みがね、男の子になったの。去年だったかな。」

まるで思い出を語るようにすらすらととんでもないことを口にする恋人。「おぉい?」とたじろぐキッドをよそに、彼女は言葉を続けた。

「ちゃんとついてたよー。すんごいのが。キッドのよりおっきかった!けどね、安心して。男の子が好きなんだって。やっぱりホモなんだって!」

やっぱりの意味がわからない。というより、男が好きなら、女の身体で居たままの方が勝手がよかったのではなかろうか。

素人判断でそう思うも、取るもつけるもその友達の決めることだ。自分には関係ない。そんなことより、「キッドのより大きかった 」と言われたことの方が気がかりで仕方ない。

「わざわざ見せてもらってきたのか?」

「だって人工物だよ?みてみたいじゃない?」

ふふんっと鼻で笑うイオナ。上機嫌な彼女はかわいいが、例え相手が元女とはいえ、自分以外のそれを見てきたという事実はいただけない。

「あぁー。良いもの見せてもらった。今の医療技術はすごいねぇ。私もつけてもらおうかな?」

もうすでにスマホが水没したことなど忘れてしまったらしい。ノリノリ、ルンルン気分の彼女は、クルクルと回りながら浴室を後にする。

「モロッコかぁ。っていうか、モロッコって単語がすでにエロい。なんか、モロッとしてるし…」

二日酔いはすでに治まったのだろうか。能天気な恋人に対して言いたいことはたくさんあったが、彼女のせっかくの上機嫌を台無しにしたくないとも考えたキッドは──

「頼むからつけてくるなよ。」

そう口にするのが精一杯だった。


END


prev | next