タクシーを降りて数分。
(この場所、しっている…。)
イオナは心の中で呟く。
「入れ。」「お、お邪魔します…」
オートロック式マンションのため、外観しかみたことはなかったものの、何度かこの辺りを散歩したことがあった。
あくまで偶然出会いたかったためであって、つけていたとか、待ち伏せていたとかとかそんなストーカー染みた話ではない。
「あまりじろじろとみるな。」
「ごめんなひゃい!」
彼の部屋はとても綺麗に整頓されていた。予想を遥かに越えて統一感があり、洗練されていて、なにより香りがいい。
「座れ。」「は、はい!」
イオナはテレビの向かい側にある、黒いソファに腰かけようとした。が、
「ふざけるな、床だ。足は崩すな。」
あまりの状況に彼女はまったく気づいていなかったようだが、ローはすさまじく機嫌が悪い。
目付きには鋭さが増し、さまざまな場面を物影から目撃してきたイオナですら怯むほどの殺気を放っている。
「あ、ごめんなさい!すみません!」
短いスカートの中身が見えないようにフローリングの床に正座をすると、彼は目の前にしゃがみこんだ。
「てめぇ、一体あれはなんの真似だ。」
「なんの?とおっしゃられましても…」
彼の問いかけの意図が読めず、考え込む。
「あれ」とはなんなのか。いや、あの状況からして合コンのことな気もしないではないが、この方からしてみれば私レベルの人間の合コンごときに…
脳内で高速でかけめぐる文字の羅列に酔いそうになりながらも、イオナは正面にある不機嫌な顔をまじまじと見つめる。
普段は物陰からこっそりと横顔を眺めるだけ。
でも今日は違う。
真っ正面から拝謁すること許されている。
たまらなかった。とにかく、もうはんぱなかった。
「かっこいい…」
イオナの心の声は、喉というフィルターを掻い潜って、当たり前のように飛び出してしまう。慌てて口を押さえたところで、なんの意味もない。
「ん?なんだ?」
「い、いえ、別に…。」
自分に向けられた声に毛細血管の一本一本、細胞の核の部分までくすぐられた気分がした。いや、もうもう脳細胞のいくつかは興奮で爆破した。
それほどイオナにとって彼は神々しい存在なのだ。
イオナの反応をどう思ったのか、彼はそれでなくても深くなっている眉間のシワをさらに深くし、問いかける。
「質問を変える。これはなんだ。」と。
それに合わせてバサッと音を立てて、なにかが床に散らばった。
イオナの視線に飛び込んだのは紛れもなく自身の手であらぬことを書き込んだスケジュール帳。
若干、血の気が引くのがわかる。
どうしてここにこれが。
どうしてこのお方がこれを。
何故、何故、どうして…
彼女は恐る恐る口を開く。
「中、御覧になられましたか?」
「あぁ。俺の周りで起きていた怪奇現象、そのすべての謎が解けた。まさか、イオナの仕業だとはな。」
彼はクッと声を出して笑う。顔をあげ、申し訳ないという風を装いながらも、イオナは内心あらぶっていた。
今、イオナって、名前呼んでくれました?よんだよね…。今、呼んだよね。3年の片想いがここで新たなる展開を?おっ、おっ、おーっ!
そんな彼女の噴き出すアドレナリンにローは気づいておらず、続けて口を開く。
「もしこんな真似をしていたのがイオナじゃなければ、警察につき出してやるとこだ。」
彼は笑いながら、スケジュール帳に挟んでいたはずの盗撮写真、ベストセレクションを宙であおいだ。
その様子をまじまじと眺めながら、その言葉の意味を考えようと脳に働きかけるけれど、彼のかっこよさに硬直したソコは全く応答しない。
このまま黙り込んでいるわけにもいかず、勇気を出してたずねることにした。
「それは、その、どういう…」
声が震えた。こんなに緊張したのは、教師のパソコンをハッキングして彼の成績を改ざんした時以来だった。
対する彼は強い口調で「愚問だ。」と言う。
イオナは一瞬にして怯むが、ローは気にすることなく言葉を続ける。
「だいたい、てめぇはなんでこんな回りくどいことしやがった。俺が毎日どんな気持ちで…」
苦虫を噛んだ顔とはこのことだろう。
怒っているのとは異なる、なにか喉につっかえるものがあるとき時の、あの難しい顔を浮かべている。
イオナは彼から視線をそらさずに恐る恐るスケジュール帳を拾い上げ、抱き締める。3年分のロー様の記録が戻ったことに安心した。
「その…怒ってないんですか?」
「なぜ怒る必要がある。」
「何故って…」
彼はミステリアスである。いつだって、ギラギラとしたオーラを身に纏い、謎のベールに包まれている。だからこそ神秘的で、だからこそ、神々しくもある。
イオナの冴えない脳みそが高速で導き出した結論は。
彼の意図なんて知る必要はないではないか。
というものであった。
「ローさm…、ローさん。あの、その、ごめんなさい。基本的な生活の邪魔はしませんので、これからも…」
これからも、観察、いや、調査をさせてくださいと言うつもりだったイオナの唇は、あっさりと塞がれた。
生暖かく、柔らかい、湿っぽい…
吸い付くような動きも、顎に触れた手の温もりも、わずかに感じる呼吸音も─
すべてロー様のもの!!
全身が瞬く間に火照ってゆく。
鼻血が溢れるかと思った。
脳髄の約半分が煮沸した。
角度を変える際に視界に入った彼は瞼を閉じていた。それがまた色っぽく、クラッとするほど艶っぽい。
唇をなぞる舌を迎えいれるように、わずかに口を開いてみるとグッと頭を押さえ込まれる。
侵入してきた舌は、命の宿った別の生き物かのように滑らかに口内を探り、イオナの身体に熱を注ぎ込んだ。
どのくらいそうしていたのか。名残惜しげに、ゆっくりと唇が離れる。乱れていたのは彼の舌なのに、息を切らしているのはイオナの方。
ローは肩で息をする彼女をグッと抱き締めて、ゆっくりと頭を撫でる。
「心配するな。お前は今までもこれからも俺の生活の中心だ。」
彼から溢れたのは、心に染み渡るような優しい声色だった。恐る恐る腕を回してみると、より強く抱き締められる。
息が苦しいのは締め付けのせいか、精神的なものか。ただ心地いい感覚なのは確かで、静かに目をつむる。
「ずっとお前が好きだった。」
「ロー様…」
「様はよせ。みっともない。」
「あの、あの、あの。」
「お前の妄想デートの内容はすべて把握した。追い追い連れていってやる。」
全身の毛穴がファッとなるほどの喜びを言葉にする術をもたないイオナは、ただ彼を強く抱き返した。
●○●○●○●○●○●
「痛みは引いたか?」
「は、はい!」
素肌を重ねるのはイメージしていたより遥かに生々しく、快感よりも痛みが勝り、そしてなによりもすさまじい羞恥心を伴うものだった。
「その返事はやめろ。」
「はい!」
でも、思う。
こうして彼の胸板に頬を預け、頭を撫でてもらえるのならそんなのはなんてことないことだと。
「そういえば、教授の娘さんは…」
「フンッ、あの教授は独身だ。」
「じゃあ、嘘だったんですか?」
「いや、教授はメスの大きな犬を飼っていて、ソイツの散歩を任されていたんだ。」
な、なんと…。
「まさかその話を聞いて、あんなガサツそうな男たちと飲んでたんじゃねぇだろーな。」
「いや、それには、いろいろな事情がありまして…」
「そんなくだらねぇ勘違いで、俺の想いを裏切ろうとしやがったのか。」
彼の掠れた声に怒りがにじむ。
声が掠れているのは情事の際にやけに淫靡な声をおあげになられるからなのだと思うと、胸が熱い。
ただ、彼の放ち続ける殺気においては、身の危険を感じないわけでもない。
わずかに力の籠ったローの腕を、なだめるようにさすりながら口を開く。
「裏切るもなにも。私、知らなかったですから。ロー様のお気持ちなんて、うぐっ。やめ…。ギャーッ」
その夜、悲鳴は歓喜の声となった。
The next story is Sabo.
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