Mission's | ナノ

強引サプライズ

3月の頭。

稽古を終えたばかりのイオナは、酷く疲弊していた。すぐにでもお風呂に入って、寝たい。そう思うのに、足が鉛のようでその足取りは重くなる。

沈痛作用のある脳内麻薬が分泌されるのは、稽古中のみ。緊張の糸が途切れた途端に、膝から崩れ落ちるなんてことはザラだ。

そう考えると、自分の足で立って歩けるだけまだマシなのかもしれない。

それでも─

お姫様抱っこでベッドまで運んでくれる王子さまがいればなあ。などといった願望が胸中で垂れ流されるほどには、精神的にも滅入っていた。

けれど、『彼』からすれば、そんな身体的、心理的状況などおかまいなしだ。

「おーい、イオナっ。」

突如、予想外の人物に声をかけられたイオナは、ビクリと身を震わせる。消耗しきっていたせいか、妄想に夢中になっていたせいか、人の気配に気がつけなかった。

もし相手が殺意を持って追いかけてきていたなら、自分は殺されていただろう。自分の甘さに嫌になりながら振り返ると、その声の主はすでに背後に立っていた。

「ずいぶん疲れてるみたいだな。」

「まぁ、そりゃ…。」

やけに明るい調子のサボの挨拶に、イオナの嫌な勘が働く。

労りの言葉をかけに来たんじゃないんでしょう?そう視線で問うと、彼は肩をすくめてみせたあと、陽気に続ける。

「頼む!14日の当番、代わってくれよ。」と。

ねだるときのサボの目は本当にズルい。パチンと合わせた手のひらを、顔の前でスリスリしながら白い歯をみせる想い人に対して、イオナはあからさまな溜め息をつく。

「当番って、たかが掃除当番だよ?用事があるにしても、それってどうなの?」

「どうなのって聞かれてもな。俺、掃除とかそういう地味なこと苦手なんだよ。」

「苦手だからなに?」

「イオナなら代わってくれるだろ。」

悪びれた様子は一切ない。むしろ、そうしてもらえるのが当然であるかのようなサボの物言いに、イオナは唇をへの字に曲げる。

掃除当番くらい代わったってなんの支障もない。むしろ、革命軍No.2のサボが掃除なんてしなくてもいいように思える。

けれど─

「あのさ、14日がなんの日か知ってるの?」

「あぁ。」

「だったら…、」

イオナは口にしかけた言葉を飲み込む。「いや、なんでもない。」と膨れっ面を背けた彼女をみて、サボは何を思ったのだろうか。

「ホワイトデーってのは、お返しの日なんだろ。だったら、俺は掃除なんてしてる場合じゃない。」

「へぇ。」

「わかってくれたか?」

「えぇ。」

サボの言葉のニュアンスから、「その日は女の子と過ごす」のだろうと理解したイオナはジト目で素っ気なく言葉を返す。

途端に彼は嬉しそうに笑った。目を細めていても眩しいほどの笑顔。イオナは視線を伏せる。

「サンキューな。恩に着る。」

手袋をはめたままの手のひらに頭をポンポンと撫でられるが、この話の流れでそのスキンシップを喜べるほどイオナは阿呆じゃない。

サボはホワイトデーの日を、ずいぶんと楽しみにしているのだろう。相手の娘をそれだけ大切に思っているのだろう。

考えないようにしても、頭を巡る想い人の恋路。抑えられない嫉妬に下唇を強く噛む。

「じゃ、その日は頼んだぞ。」

「念を押されなくてもわかってる。」

可愛いげのない声で返事をしてしまう自分に嫌になった。面倒を押し付けられてたことを、「それをすらも嬉しい」と思えるほどに健気にはなれない。

きっとそういったところが自分の欠点なのだ。

可愛いげがなくて、甘えベタで、健気でない。その上、嫉妬深くて、頭が堅いとなればもう壊滅的だ。

一体誰と過ごすんだろう。

一連の流れの中で疲労感はマヒしたが、そのぶん心が憔悴する。どちらにしても重たい身体。

しばらくの間、立ち去るサボの背中を目で追っていたイオナだったが、目頭が熱くなっていることに気がつき踵を返す。

「こんな涙腺脆かったかな…」

自虐的に呟いたイオナは、手の甲でぐいぐい涙を拭い、小さく鼻を啜った。

……………………………………………………………………

3月14日。

浮き足だった雰囲気の中、イオナはモップで床を擦る。

掃除というのが"もっと頭を使う作業"で、"集中しきれる作業"だったなら、ここまで心を抉られてはいなかったはずだ。

普段は素っ気ないやりとりしかしていない男女が、ハニカミながら会話する。ありがとう。こちらこそ。そんな言葉の応酬を間近に感じながら、モップと床を、雑巾と窓を相手にするのはストレス以外の何物でもない。

たった一粒のチョコレートが、ネックレスだの万年筆だのに化けるというのはどうにもおかしな話だというのに、それを平然とやってのける男連中。

その不等価交換になんの疑問も感じず、いただけるものはいただきますと言えてしまう女連中。

(正直、羨ましい…)

高価なものなんていらない。なんなら、消ゴムやシャーブペンシルでかまわない。食べかけた饅頭などを渡されたなら流石に引くかもしれないが、それでもなにもないよりはマシだろう。

兎に角重要なのは、その人から貰ったというそのファクト。プレゼントの価値は値段ではなく、それを選ぶ際に彼が働いた労力と、気を止めてもらえていたという実感に価値があるとイオナは考えていた。

プレゼントをもらいたい。お返しを貰って、お礼を言いたい。「チョコレートおいしかった」と言われて純粋に照れて───

(ってか、配ってすらないからね。)

──イオナは床についた靴底の後を擦りながら、自嘲めいた笑みを浮かべる。

───────────────────

バレンタインデー前日。

「誰からもチョコを貰えないなんて寂しい。」

突然そんなことを言い出したサボは、怪訝な顔をするイオナにねだったのだ。

「だから、ちゃんと用意しといてくれよ。」と。

その時は「なんで私が…。」と素っ気なく対応した。けれど、言われなくても準備はしていたし、渡すつもりでもいた。きっとそれが本命であることは伝えられないだろうが、それでもちゃんと渡すつもりだった。

けれど──

当日。色とりどりのラッピングを抱えたサボを目にしたイオナはげんなりした。きっと彼は、女の子全員に催促の言葉を口にしていたのだろうと。

去年は『敷居が高い』と渡すのを渋っていた女の子まで、率先してチョコを渡しているその状況。受け取ったサボの笑顔を前に、イオナは渋い顔をする。

(なんなのよ。一体、なんなのよ!)

胸中であげた怒声は誰かに伝わることもなく、その怒りは身体の中をぐるぐると巡る。

嫉妬。怒り、嘆き。その感情の全てはさまざまな神経を経由して指先へと伝わり、シンプルなラッピングを施された箱がぐにゃりと潰れた。

(もういい。もういらない!)

一体なにを捨てたかったのか。イオナは共用のゴミ箱の中に潰れた箱を叩きつける。これでもかというほど、大きな音を立てて。

(バカ、バカ、バカ…)

惚れた弱味という言葉があるが、惚れた側ばかりが辛いおもいをするのは理不尽だと思う。別に相手に同じだけ苦しめとは言わないし、苦しんで欲しくなんてないと思う。

ただ、苦しんだ分だけ"良いおもい"をさせてくれてもいいんじゃないのか。そうじゃないとこの気持ちは──

───────────────────

掃除が終わり、自室へと戻ったイオナは、乱暴にベッドに倒れこむと、抱き枕の先っぽに顔を埋める。この枕は、これまで何度も涙を拭ってくれた。

もういっそ、抱き枕を彼氏にしてしまったほうが"思いやってもらえるのでは"とおもってしまうほど柔軟な存在。

ぐすんと鼻を啜るとそれに合わせて、どっと涙が溢れる。意地を張ってしまう自分が嫌になる。可愛いげのない自分が、甘えベタな自分が、素直じゃない─

自己嫌悪の沼の中。足掻いても、足掻いても沈んでいく心はもうすでに真っ黒だ。辛い。苦しい。もうやめたい。

それでも、好きがやめられない。

なにかをねだられる度に期待して、些細なワガママに振り回されて、心を削って。関わりが増えるほどに傷が増える。傷が増えるほどその存在が大きくなる。

存在を強く感じるほどに好きになる。

「サボの…バカ。」

小さくぼやいたイオナの頭に、ポンッと手が添えられる。

最初はそれを気にするほど心に余裕のなかったイオナだったが、さらにもう一度ポンッと撫でられたところでハッとした。

驚きから息を呑み、漏れそうになる嗚咽を堪える。イオナが身構えたタイミングでベッドの縁が沈んだ。

「誰がバカだって?」

柔らかい口調と、甘い響きのある声音。隙を付かれた展開にイオナは狼狽する。

「な、なんで、ここにいるのよ…」

「デートしてた。」

「振られたからここにきたの?」

「いや。そうじゃない。」

抱き枕に顔を埋めたままぶつくさ言うイオナの頭を撫でながら、サボは余裕のある口ぶりで続ける。

「イオナとお部屋デートをしてた。」

「は?」

「まぁ、部屋に戻ってくるなり、俺の存在に気づきもしないで急に泣き出したから、どうしようかなとは思ったんだけどな。」

「……。」

最初から部屋で待ち構えていた。そういうことなのだろう。イオナは抱き枕で涙をぐいぐいと拭った後、顔をあげる。

途端に、思考が停止した。

「風船…」

色とりどりの風船が部屋の中を漂っている。部屋の天井が見えないほどにたくさんのカラフルが─

「ホワイトデーはお返しの日だからな。」

「私はなにも…」

「イオナがシャイなのは知ってたけど、さすがにゴミ箱に経由で渡されるとはな。さては、ツンデレか?」

呆然としながらも上体を起こしたイオナに対して、一方的に言葉を紡ぐサボは心底たのしそうだ。ツンデレの意味も盛大に履き違えているように思えるが、それをしている余裕はない。

「俺はちゃんと食ったぞ。イオナが用意してくれたチョコレートを。」

「でも…」

頭がついてこない。すでに緩んでいた涙腺から涙が溢れ、言葉が喉につっかえる。顔をぐちゃぐちゃにするイオナの頭を、サボは抱き寄せる。

「俺のことを泣けるほど好いてくれるのは嬉しいが、いまから感極まってどうする?本番はこれからだろう。」

「これからって…」

ぐずぐずな声は思った以上に情けない。けれど、サボがそれを気にしているような素振りはなかった。頭に添えられていた手がするすると肩まで滑り、身体を押し剥がされる。

ぐちゃぐちゃの泣き顔をみられることに抵抗はあったけれど、拒むような真似はしない。

視線が噛み合う。
みる人に安心感を与えるような、人懐こい笑顔に胸が熱くなる。緊張が限界を通り越して、身体はガチガチだ。それでも心だけは柔軟にサボヘの想いを大きくしていく。

これ以上にないはずだった感情は、それでもまだ増幅を続けて──

「イオナは泣き虫だな。」

「放っておいてよ。」

「放っておけるほど、俺はイオナに興味がない訳じゃない。」

回りくどい言い回しにイオナは苦笑う。サボはそんな彼女を再びギュッと抱き寄せた。

熱い息が耳にかかる。
初めての距離。照れ臭さともどかしさにイオナは身を竦める。

その縮こまった分だけ、さらにギュッと強く抱かれ 息苦しくなった。でも、温かい。

強く拘束されているにもかかわらず、微睡みの中にいるような心地よさ。イオナは瞼を閉じる。

片想いの辛さなど忘れてしまうほどの衝撃。
痛みも哀しみも、嫉妬すらも。あれほど振り回されたその全てを、一瞬で取り払えるサボは心底ズルい。

(でも、そんなズルいとこすら大好きだ。)

とんでもない人を好きになってしまった。そう思う反面で、サプライズのときめきは心拍数に直結する。全身を響かせる早鐘はサボにも伝わっているのだろうか。

夢なら覚めないでほしい。そう願う彼女の耳元でサボは甘えるような口調で続けた 。

「なんせ、俺はイオナを愛してるからな。」と。

The next story is new mission.

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