数日後。
閉店前の店内でビールサーバーの掃除をしながら、イオナはチラチラと時計を確認する。
閉店まで残り30分。
その日、彼女は「今月いっぱいで辞めさせてください。」と言おうと決めていた。
おやっさんも板前さんも他のスタッフも皆いい人なのだけど、やはり仕事内容がきつい。
それに、先日の鼻血噴射事件は彼女が辞める決断をするには充分なものだった。
初めてのバイト先に『辞める』と告げることに、イオナがドキドキしていたその時…
ガラガラガラと戸の開く音と、軽快なやり取りが耳に届いた。
「遅くなっちまったけどかまわねぇか?」
「おう、いらっしゃい。ビールは瓶しか出せねぇぞ。」
「それはいいんだけど。おやっさん、あの鼻血の娘いるか?」
客らしい人物の放った言葉に、思わずイオナの身体はビクリと震える。
そうだ、この声はグーパンチのあの人だ。
そう気がついた時点で彼女は冷静を失っていた。
ウォーターサーバーからコップへと注がれていた水は溢れ、彼女の腕を伝う。肘から滴り、床のタイルを濡らしていく。
それでもイオナは注ぎ口からコップを外すことを忘れて、ただただ二人の会話に耳を傾けていた。
「おう、居るよ。今、お冷や持って出てくるさ。」
おやっさんの言葉に妙に身体が強ばる。
どんなに記憶から消し去ろうとしたところで、身体はあの衝撃と痛みを忘れていない。
「おう、よかった。あの子に逢いに来たんだ。」
「そーかい。お茶漬けでも食うか?」
「あぁ。そんな感じで。」
一体なんの用で私なんかに…
イオナは内心ビクビクしながら、シャンクスのもとへお冷やを運ぶ。彼に気付かれぬよう、こっそりとカウンターにコップを乗せるが底がコトンと音を立てた。
まずい。
イオナがそう思ったと同時、シャンクスが振り返った。二人の視線がカッチリと重なる。
彼は驚いた顔をし、彼女は慌てて小さく頭を下げる。
「こ、こんばんは…。」
イオナの顔をみて、その人は大袈裟なくらいにニカッと笑う。心底嬉しそうな顔だ。年相応とは思えない、少年のような笑顔に呆気に取られたイオナだったが、一拍遅れで微笑みを浮かべた。
「おっ、いたいた。この前は悪かったな。」
突然、イオナの方へと伸ばされた、高級そうな腕時計の巻かれた腕。一瞬身構えるイオナだったが、その大きな手のひらに頭を撫でられ再び呆気に取られる。
「あ、あの…」
「かわいい顔殴っちまってごめんな。痛かっただろ?」
「大丈夫でしたから。」
「ごめんな、ほんとに悪かった。」
反応に困るイオナのことなど気にすることなく、その節だった指は何度も彼女の髪をすき、頭を撫で回す。
「おやっさん、こんなかわいい娘どっから連れて来たんだよ。」
「連れて来たんじゃねぇ、面接受けにきたんだよ。」
「へぇ、かわいいな、ほんと。」
「その手ぇやめてやってくれ。戸惑ってんだろ。」
おやっさんはあきれたように笑いながら、顎でイオナを指した。二人から同時に視線を向けられた彼女は、小さく肩をすくめ困ったように微笑んだ。
「おっと、悪い、悪い。」
イオナの表情をみてシャンクスはどう思ったのか、サッと手を引っ込める。さっきまで触れられていた部分に、ぼんやりとその温もりと重さが残っていた。
「イオナちゃんか。ふーん。」
その日、シャンクスは何度も彼女の名前を呼び、あれやこれやと冗談を言い、からかい続けた。
恥ずかしいやら照れ臭いやらでイオナの頭は沸騰寸前。のぼせ頭を抱えて仕事を片付けるハメとなり、『辞めたい』と告げるのすら忘れて帰宅してしまった。
おかげさまで。
「らっしゃい、ってまたお前か。」
「おやっさん、なんすかそれー。」
「おーい、イオナ。シャンクスがきたぞ。」
「イオナ、おみやげ持ってきたぞー。」
と言う具合に、あれやこれやと可愛がってもらい、バイトを1年間も継続。
おまけに常連客と店員という関係でしかいられない相手だとわかっているのに、どんどん惹かれてしまっていた。
後輩と来る時はちょっとヨソヨソしく、一人で来るときは、周りのお客さんが親戚かと勘違いするほどに馴れ馴れしい。
そんな距離感が余計に彼女の想いを加速させたのだが。
●○●○●○●○●○●
連絡先も知らないし、逢えるのは店内だけ。
趣味や休日の過ごし方だって知らない。
そんな相手との恋愛は確かにときめきが多いが、それ以上に展開を望めない虚しさがある。
なにより二人の歳の差を考えれば、自分なんてお子ちゃまにしか見えていないのだろうとイオナは考えていた。
どんなに好きになっても、恋い焦がれても、手と手が触れ合うことなどない相手。背伸びしても、ズルをしても、きっと肩を並べることなど出来ない存在。
すぐに諦められるほど簡単な想いではないれけど、いつまでも追い続けるべきではないもの。待ち続けても意味のないもの。
だから、その気持ちに『憧れ』という名前をつけて、恋愛とは別物だと考えることにする。
そうすれば傷付くことも、期待することもしなくて済むのだから。
まるで屁理屈をこねるかのようにそんなことを
考えたイオナは、憧れフォルダに彼の名をつけて、溢れる恋しさを保存した。
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