電話越しに聞こえる怒声にサボは頬を緩める。
彼が今、耳にあてがっているのはイオナのスマホで、その通話相手はもちろんイオナの恋人。
本当はイオナが電話をする予定だったのだが、その重圧に耐えきれなかったのか、はたまたアルコールを飲み過ぎたせいなのか、彼女は現在ソファで深い寝息を立てている。
そんな彼女に(当然のことながら)指一本触れてないサボだったが、電話口では嘘八百を並べ立て、相手を煽る煽る。
イオナの彼氏も我慢の限界に達したらしく、「今すぐそっちに行ってやる」、「場所を教えろ」、「殺してやる」と頭の悪い脅しをかけてきていたのだが、サボは全く動じていない。
それどころか、彼の苛立ちが伝わってくるほどに嬉しそうに楽しそうに言葉を紡ぐ。
「おいおい、そんなに声を張るなよ。イオナが起きちまうだろう?」
どうしてイオナはこんな粗野な野郎と付き合っていたんだろうか。本当に大切にされていたんだろうかと心配になるが、それも今日まで。
イオナと打合せしていた訳ではないが、サボは勝手に"二人を別れさせる"ことに決めていた。
「お前はイオナの目を盗んで浮気してやったつもりかもしれないが、すでにイオナは俺と付き合ってたんだ。まあ、残念だったな。あぁ、そうだ。なんだか、穏便に済ませたいとか言ったらしいが、俺もその意見に乗ってやるよ。賛成だ。」
ドンッと何かの壊れる音が響く。その向こうから、女の悲鳴のようなものが聞こえ、案の定と言ったところだろうか。
「まあ、あれだ。いつかダブルデートでもしような。」
挑発的に言い放ったサボは、画面に表示された通話終了ボタンを押す。すでにその番号は着信拒否設定をしており、LINEもメールも届かないように設定している。保護メールも電話帳のページも消し去った。
イオナは目を覚ました時怒るだろうか。
もし怒られたなら、その時は誠心誠意謝ろう。
他人の恋路に首を突っ込み、破局させた。その行為が褒められたとのではないとわかっていても、妙な高揚感から楽天的な思考に走ってしまう。
「どちらにしろ、イオナは俺の女だ。」
それはあくまで、「イオナの元カレとなった男とサボの間で」の話なのだが、それでもサボは心底嬉しそうだった。
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電話が終わって2時間。500ml缶ビールを三本も空にしたサボはほどよく酔っ払い、良い具合に冷静さを取り戻していた。
だからといって特にやることもなく、イオナの寝息に耳を傾けたり、イオナの寝顔を眺めたりしていたのだが。
お茶のボトルを口に運んだついでに、なんとなく目に入ったイオナのスマホを手に取ってみる。カバーを外してみると、本体に『元』となった彼氏とのチュープリが貼られていた。
幸せそうに笑うプリントシールのイオナ。
この幸せを壊してしまったのは、自分なのではと不安になる。もしかしたら、イオナはやり直すつもりだったかもしれない。まだ未練があったのかもしれない。いや、むしろあるだろう。
そんな簡単に誰かを嫌いになるなんて─
「ごめん、私。寝ちゃってた…」
突然聞こえた寝起きの声に、サボはビクリと身を震わす。後ろめたさも感じつつ、寝起きの声もかわいいな。と不覚にも考えてしまう。
「いや、別にかまわねぇけど…」
曖昧に微笑む彼のたどたどしさに、身体を起こしつつ不思議そうな顔をするイオナだったが、サボの手に自身のスマホが握られていることに気がつくと不安げな顔をした。
「プリクラ…見た?」
「まあ。見たっつーか、見えた。悪かったな。」
「うぅん。別にいいよ。」
イオナはサボの手からスマホを受けとると、プリクラを外してしまう。そして灰皿の中にそれを入れると、ライターで炙り始めた。
「おい…」
「別れるから良いんだって。ちゃんと今日別れて、もう忘れるんだ。」
寝起きの少しだけ低い声音と、明るい口調が微妙にずれていて逆に眠そうにも思える。やっぱりイオナはかわいいな。そんな風に思いながらも、サボは慎重に話し始める。
イオナが眠っていた時に、自分が何をしてしまったのかを。
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「サボのお節介焼き。」
プクッと頬を膨らまし、目を細めるイオナの言葉をサボは軽く笑って受け流す。彼女の頬はチークを塗った訳でもないのに紅潮しており、その瞳はとろんとしている。
寝る前に飲んでいた酒が身体に残っていたのだろう。ほんの少しのカクテルを飲んだだけで、イオナの言動は不安定になり始めた。
酔っ払っている姿も充分にかわいいが、だからと言っていつまでもそういった仕様のホテルに居続ける訳にはいかない。なにより、この状況でいつまでも紳士で居続けられる訳がなかった。
「あぁー。わかった。俺が悪かった。勝手なことをしてごめんな。ってことで、そろそろ帰ろう。」
「やだよ。帰りたくない。」
「やだって…。一人になるのが寂しいとかそんなこと言っちまうタマじゃあねぇだろ。」
「勝手に決め付けないでよう。」
「なら、寂しいのか?」
からかい交じりの口調で問うと、イオナはムッとした顔をして抱き締めていたクッションを「うっせぇ!」と投げ飛ばす。
眼前でそれを受け止めたサボは、困った顔をするふりをしつつ、嬉しそうに頬を緩めた。
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困り果てるサボをよそに、イオナは寝こける。
(家にあげてやるとは言ったが…)
すやすやと心地よさげに眠っているが、そこは玄関のたたきだ。段差の高さがちょうどよかったのか、イオナはたたきに座り込み、段差に腕をついて眠りに落ちている。
客用のスリッパを取りに行ったその30秒程度の間で、まさかこんなことになろうとは。
イオナの前にしゃがみこんだサボは、穏やかなリズムで上下する肩をわずかに揺すってみる。
「おい、起きろ。」
「んー。」
「イオナ。頼むから。」
「やだぁ…」
こんなことになるくらいなら、延長してでもホテルで寝かせてやればよかった。今さら後悔しても遅いが、溜め息ひとつ吐くらいは許してほしい。
「あぁー。わかった。わかった。自分で動きたくねぇって言うなら、文句は言うなよ。」
酔っ払いにそんなことを言っても意味はないかもしれない。それでもあえて声をかけたサボは、大きく深呼吸した後、ソッとイオナの脇に手を差し込んだ。
惰眠を邪魔されたせいか彼女は「うぅーん。」と唸り声をあげるが、お構いなしに抱き上げる。両腕にかかるずっしりとした重みが、愛おしい。汗の匂いとシャンプーの香りに鼻孔をくすぐられ、頭がクラクラしてきた。
気を許されているのか、異性としてみられていないのか。そこらへんは全くわからないが、こうして"甘えられる"のも悪くはない。
思わず口元を緩めたサボに投げ掛けられるのは─
「サボのバカ…」
けだるげな声で発された寝言。
「なんだよ、このタイミングで。」
「責任、取ってよ…」
それが無意識で発せられる台詞であることは明白で、イオナが覚えているとは思えない。それでも─
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「痛い…」
イオナは小さく唸る。どこが痛いというより、脳みそを中心にじわじわと鈍い痛みが全身に響き渡っているような感覚。
寝返りを打つのも、額を押さえるのも億劫で、身じろぎひとつ打ちたくない。
「そりゃそうだろう。」
「なにが…」
「男の部屋で寝こけるなんて、無防備過ぎると思わないのか?」
「へ…?」
状況が飲み込めない。痛む頭をかばいつつ、声のする方へと顔を向けたイオナは、その人の格好をみて狼狽する。
「なんで裸なの…」
「風呂くらい入るだろ?」
「そうじゃなくて。」
首から下げたバスタオルで頭をわしゃわしゃしつつ、朗らかに微笑むサボ。予想以上に筋肉質な胸板と、均等のとれた腹筋。際どいラインのボクサーパンツがやけに色っぽく、見ているだけで照れてしまう。イオナは逆上せそうになる頭を何とかするため、静かに布団を被ったのだが。
そんな彼女の動作をどう思ったのか、サボは「おいおい」と呆れたように笑った。
「心配しなくても寝込みを襲うような真似はしてないぞ。」
「いや、そうじゃなくて。」
「そうじゃないならどうしたって言うんだ?」
これまでただのバイト仲間だと思っていた相手の、妙に色っぽい身体を前にイオナは頬を火照らせる。二日酔いの気だるさはすでに溶かされ、今この瞬間のことしか考えられない。
「サボ、エロいよ。」
「はあ?」
「身体、なんかすごいよ。」
思ったことをなんでも口にしてしまうのは悪い癖。けれど、この状況を笑って流せる余裕もない。
「だからさ、その。服を…着て?」
躊躇いがちに、けれどハッキリと伝えられたイオナの要望。サボは「へぇ」と感心したような声をあげ、ベッドに歩み寄る。
「ちょっと…」
「俺はてっきり、異性として認識されてないんだろうなと思ってた訳だ。」
「来ないでよ。」
「だから、なんだ。俺は今の発言を、すごく好意的に受けとることにした。」
「一体何を言って…」
まるでこちらの声など聞こえていないかのような振る舞い。ベッドが歪んだのは、サボが手をついたから。否、サボが上に乗っかったから。身体に跨がったから。
「ちょっと待って。」
「ちょっと待ってって。イオナ、あのなあ。俺はお前がホテルで寝ている間も、ここにきて寝ている間もずっと待ってやっただろう?」
「だからそれは─」
布団が引き剥がされる。ベッドの上でサボに組み敷かれている。それだけでも充分に刺激的なのに、彼は半裸だ。目のやり場に困るし、真剣な目をされると身体が熱くなる。
思わず顔を横に逸らしてみるが、顎を持ち上げられ視線を無理矢理合わされてしまう。
「責任、取ってほしいんだろ?」
「何言って…」
「俺は取る気満々なんだけどな。」
悪戯な微笑みすらも色っぽい。どうして今まで、ただのバイト仲間としてしか見れなかったんだろう。というより、ただのバイト仲間だったはずなのになんでこんなことに…。
「まあ、なんの責任かって言われたら、これからすることに対するってことで─」
困惑するイオナをよそに、勝手に話を続けるサボ。その表情は嬉々としていて、こちらに有無を言わせぬオーラがある。
「とりあえす、イオナは俺の彼女になればいい。」
失恋したばかりのはずなのに、そのことすらも忘れて心拍数を上げ続ける心臓が今にも胸から飛び出してしまいそうで。
首筋にかかる熱い息。気がつけば、彼はそこにキスを落とそうとしていた。パイト終わりの、汗をかいたままの首筋に─
「まっ、待って!」
「だから─」
「さ、先にシャワー、浴びたい。」
「え?」
「なんでもいいから、先にお風呂…」
自分でも何を言っているんだろうかと思う。サボも一瞬呆気に取られた顔をする。
「それから、それから話、聞くから。」
「お、おう。」
調子を乱されたせいか、勢いは失速。なんだか申し訳無さそうにサボは身を引く。
「湯沸し器のスイッチ、右手にあるから…」
「うん…。」
気まずい。ひどく気まずい。それでも、なんとなくお互いに感情をたぎらせるきっかけになったわけで…
「それじゃあ、シャワー借ります。」
そのあとどうなるかを考えると、頭がクラクラしてくる。けれど、その緊張感は決して嫌なものではなかった。
END
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