1時間以上もの間、ベッドに仰向けに寝転がり、楽しかった頃の思い出に浸っていたローだったが…。
このままではいけないと思い直した。
3日後にイオナが帰ってきたときに、こんな状態では完璧に幻滅されるだろうし、呆れさせてしまうだろう。
これ以上、状況を悪化させてしまうことだけは避けなくてはならない。
彼女が帰ってくるまでに、少しでも部屋を綺麗にしておこう。
そこまで前向きに思い直すことが可能ならば、「浮気しているかも…」なんていう発想自体を打ち消してしまえばいいというのに、彼はそうしなかった。
ベッドからいそいそと立ち上がると、深く眉間のシワを刻み、ホリの深い顔に一層影を作りながら、リビングへと向かう。
大人二人の生活なので、とっ散らかるというほどではないが…。テレビ台や棚に並べてある写真立てには、うっすらと埃が積もっている。
引き出しに入れられた日用品や文房具の類いも、よく見ればいつもの位置にはなくごちゃごちゃとしている。
ローは無言のまま、彼女に頼りっきりになっていた整理整頓と、埃の拭き取りを行う。
耳掻きやピンセットなどの小物から、固定電話のそばにあるインクの出なくなったボールペン。普段は使わないカッターナイフや予備のシャーペンの芯。
たくさんの小物たちを用途順に並べ直し、時にはゴミ箱へと投げ込む。ゴミの分別については、あまり詳しくないらしく、ここでは省いているようだ。
ときどき頭のどこか隅の方がで沸き上がる「もう手遅れだ。」という声を、顔を左右に振って否定しながら、淡々と作業をこなすロー。
本来やるべきである"昇級試験の勉強"については意識も向かず、イオナの居なくなった部屋から孤独感を掻き消すべく迷走を続けていた。
結局、昼食を取ることなく夕方を迎え、風呂場の隅に潜んでいた黒カビと水垢を制圧するに至った彼だったが…
やることがなくなれば、やはりまた感情は沈みはじめてしまう。
なにより、埃の拭き取りの最中に見てしまった卓上カレンダーの存在が、彼の抱いていた蟠りをチクチクと刺激していた。
ローはゴム手袋を外すと、ピカピカになった風呂場を後にする。
そうして再び、イオナのドレッサーに乗せられた小さなカレンダーを手に取った。
彼女はあまり記念日といった類いのものを、無駄に量産したりはしない。
祝うとすれば、互いの誕生日とクリスマス等の王道のイベントくらいのもので、交際を始めた日を記念日化するのですらローの意向だった。
そんな彼女が簡単に予定を書き込んでいるカレンダーに、誕生日を示すマークが『3箇所』に存在していた。
お互いの誕生日ともうひとつ。
その誕生日が誰のものかを想像しそうになり、一度は『勘違いだ』と目を背けたのだったが。
やはり気になってしまい、そのマークを凝視する。
その他にも、日付に小さな印が付けられている日がいくつかあり──それが、彼女が帰宅が遅かった日ともなれば…。
「俺が悪かったのか?」
誰もいない部屋の中でポツリと呟いてみても、当然の如く答えは返ってこない。
イオナが以前よりもトーンの明るいファンデーションにしていたとか、グロスの色が鮮やかになっていたとか。
思い返せば、服装の雰囲気もその頃から変わっていた。
気がついた時に声をかけるべきだったのだろうか。そうして、ちゃんと向きっておくべきだったのだろうか。
『今更遅い』
どんなに考えたところで、イオナが家にいないこの状況では、どうすることもできない。
本当に実家に帰っているのだろうか。
ギシギシと音を立てて軋む胸。
肺がうまく酸素を裁ききれず、息苦しさを覚える。
頭を抱えその場にしゃがみこんだところで、なんら意味はない。
「クソッ、クソッ、クソ…ッ」
ガシガシと強く頭を掻き回し、声を荒げるローら、苛立ちと後悔に押し潰されていた。
■□■□■□
「帰ってきちゃったよ…」
母親に「ローくん心配だからみてきなさい。」と言われ、煮物やらなんやらを持たされ帰ってきたのはいいけれど…。
イオナは出掛けの彼の様子を思い出し、玄関を開けるのをなんとなく躊躇っていた。
勘づいていたらどうしよう…。
もし妊娠のことに気がついていたら、ちゃんと説明しなくてはいけない。そうなると、10〜15%の割合で初期流産を経験する可能性があることも伝えなくてはならない。
そうなった時のことを考えると、なんとも気が重かった。
初期流産の原因自体は、染色体異常などという『受精卵側』が原因であることが多く、母体が安静にしていなかったからどうだという話ではない。
ただ彼のことだ。
「安静にしてろ」の一点張りで、それこそ"試験勉強"など蔑ろにしてしまうだろう。
もうすでに恋人はそれを蔑ろにしてしまっていることなど露知らず、イオナは無駄に気苦労を覚える。
それでも、いつまでも家の前で立ちっぱなしというのも身体に良くないので玄関の鍵を差し込んだ。
□■□■□■□
聞こえるはずのない解錠音に、ローの思考は一度停止する。
彼のなかでは、 イオナは浮気旅行の真っ只中。こんなところに戻ってくるハズがなかった。
ならば一体誰が?
ドレッサーの前に踞り、頭を抱えたまま険しい表情を浮かべて耳をそばだてる。
一気に緊張感を張り詰めるローだったが──次第に近づいてくるスリッパをスースーと擦りながら歩く聞き慣れた足音に、パッと腰を持ち上げた。
「イオナなのか!?」
「あれ?ロー、どこ?やけに部屋が綺麗なんだけど…」
「待て、俺はここだ!」
「えぇっと、何を待てばいいの?」
「全部だ!」
寝室とリビングで互いに声を張り上げ会話する二人。
玄関から入ってすぐにある書斎にいるはずだったローの姿が見えず、困惑気味のイオナは綺麗に片付いたあちらこちらを確認しさらに困惑している。
一方で、 一度自分の顔を鏡に映したローは、両手で頬をポンと挟み気合いを入れた。
散々あれこれ悩んでいたが、イオナが帰ってきたことによる嬉しさにより拭き飛んでしまったらしい。
浮気についての追求はやめておこう。
今は傍にいられることを素直に喜ぼう。
そんな考えを胸に秘め、リビングへと顔を覗かせたローをみてイオナは何の気なしに訊ねる。
「あれぇ、寝室にいたの?」
「あぁ。まぁな。」
「勉強は進んだ?今回の試験は出世に響くんじゃなかったけ?」
「あぁ、そういえばそうだったな。」
いざ顔を見てしまうとどうも緊張してしまう。ぎこちない対応の恋人を訝しみながら、イオナはさっきローが整頓したばかりの引き出しを開いて中を覗き込み首を傾げた。
「ローって試験前は大掃除したくなるタイプだったんだね。」
「そうかもしれねぇな…ハハッ」
「なにその空笑い。」
「なにって特に意味は…」
額をポリポリと掻きながら、リビングの入り口付近から一向に動こうとしないロー。
それはイオナの目からみれば異常なことこの上ない。なにより、目を合わせようともしないし、『なにか』をひた隠しにしている雰囲気を隠しきれていない。
そこで彼女は単刀直入に思ったことをぶつけてみることにした。
「まさかローってば、浮気?浮気相手をここに呼んで、掃除してもらったとか!?」
「なっ!?」
「え?図星なの…」
自分が疑っていた側のはずなのに、疑われる側になってしまった。ローはこの状況を飲み込めないで硬直。
その制止をみたイオナは、適当に思い付いたハズのそれがビンゴだったらしいと思い込み硬直。
無音。静寂。不穏な空気。
「いやっ、違う。誤解だ。イオナ。」
「で、でもしどろもどろになってんじゃん。なってんじゃん!?」
「だから、それは、あれだ。」
「なによ?同棲中の部屋に女入れるなんて酷いよ。酷い!」
「誤解だ、イオナ─」
瞳にいっぱいに涙を溜めた彼女を前に、ローはどうしていいのかわからない。なんでこんな展開になってしまったのかを考える猶予はない。
「─掃除は俺がやった。お前のためだ!」
彼は言わないでおこうと思っていたハズのことを、動揺した頭でなるべく噛み砕いて説明し始める。
「イオナが他の男のところに行ってしまうんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなかったんだ。」
「え?」
「俺はイオナが好きなんだ!だから少しでも有能であると思われたかった!それだけだ。」
ドンッと壁を叩いて力説するロー。
それを見て、一瞬呆けた顔をしたイオナは冷静さを取り戻した後に、言った。
「えっと、どういうことかな?」
□■□■□■□
数日後。
ソファに並んで腰をかけ、ペアのマグカップに注がれたホットミルクに口をつける。
ローはあからさまに顔をしかめるも、それでも飲むのをやめようとしない。
「ローはいいんだよ?別にカフェイン摂取したからってどうってことないでしょ?」
「イオナと同じものを飲みたいと思って何が悪い。」
「悪いとは言ってないけど…。」
彼を気遣ったつもりが、逆に不安にさせてしまった数日前。あれからローは、やけに不機嫌で妙に優しい。
ムスッと不貞腐れた顔をしていながら、必ず隣に座ってくるし、なにか用事を始めると決まって「俺がやる!」と言い出す始末。
この上、妊婦が摂らない方がいいと推奨されているものは、一切摂取しなくなった。
葉酸が胎児にいいと知れば、それの多く含まれる食材を買い漁ってきて夕飯を作ってくれる。
あんまりおいしくないけれど、悪戦苦闘している姿をみるのは面白くて仕方ない。
おかげでつわりもずいぶんと楽になってきた。
トーンをあげたファンデーションを塗りたくらなくても、色の強いグロスを使わなくても肌の色は健康的で、3、4日に一度、仕事終わりに栄養点滴を打ちにいかなくても大丈夫。
よってメイク時間は短縮、夕飯時までには帰宅できる生活に戻れている。
「体調は大丈夫か?」
「おかげさまで。」
「次の病院はいつだ?」
「来週の金曜日!」
「仕事…、早く終わらせる。」
「いいよ。一人で大丈夫だから。」
ぶっきらぼうに言葉を紡ぎ、ぎこちなく目を伏せるのは照れ隠しなのだろう。ほんとはきっと「パパだよぅ」とかやりたいに違いない。
「いや、俺もエコーがみたい。」
「そっか。」
試験も無事にパスしたらしく、職場でも調子はいいはずなのに、どうにも素直になりきれていないところがあるローをみていると、すごく温かい気持ちが沸き上がってくる。
「昇級試験合格祝いやらないとね。」
「無理をするな。俺はくだらねぇことを褒められたくて仕事をしてるわけじゃない。」
「そりゃそうだけど…。」
不満げなイオナの隣。
眉間に深くシワを刻んだまま、テレビのリモコンを手にしたローは、電源ボタンを押しながら、聞こえるか聞こえないかといった声量で呟く。
「イオナが隣にいてくれるなら、俺はなんだってやってやる。」
「だから、どこにもいかないでくれ。」
しかし、無情にもその声は誤操作によって選局されてしまったアナログ放送の砂嵐の音のせいで、すべて掻き消されてしまっていた。
「え?なんて?」
「いや、なんでも…ない。」
「えぇー。なになに?」
「なんでもない。」
ただ、ふてぶてしいその表情から、わずかに滲み出ていた照れをイオナは見逃してはいなかった。
Next a new mission.
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