ムスッと…
同棲中の恋人の背中を見送りながら、やはり彼の表情は険しかった。
「それじゃあ、行ってくるね。」
「あぁ。」
「どうしたの、ロー…?大丈夫?」
「大丈夫だ。気にするな。」
ドアノブに手をかけたままイオナは、ローの顔を覗き込む。
しかし、彼は目を合わせようとはせず、顔の前で手のひらをかざして、その視線から顔を背けた。
「んー。なにかあったら連絡頂戴ね。」
「わかった。」
「…、ホントに大丈夫?」
「いいから早く行ってこい。」
「うん、行ってくる…。」
あからさまに様子のおかしい恋人を気遣いながらも、彼女はドアを開いた。
「2、3日で戻るから。」
「あぁ。」
なにか言いたげにローへと視線を送るが、やはり彼は俯いたまま。
その深刻そうな表情をしばらく眺めていたイオナだったが、なんの反応もないために諦めたのか、前を向いて一歩を踏み出した。
ドアが静かに閉ざされ、一人残されたローは項垂れるようにその場にしゃがみこむ。
綺麗好きだったはずのイオナが、ここ2、3週間、部屋の片付けをサボりぎみになった。
かと思えばメイクの時間が異常に長くなり、ときどき連絡がつかないことがある。 そういう日に限って帰りが遅く、その上、惣菜やレトルト食品を買ってくる。
イオナらしくない行動が重なり始め、彼女の中で『自分との生活』の優先順位が下がってきていることを身を持って感じていたロー。
危機感から掃除やゴミ捨てなど、出来る範囲のことはこなしていたのだが…。
イオナの方から、『2、3日実家に泊まってもいい?』と話を持ちかけられた。
車で10分もかからない実家にわざわざ泊まるというのは、同棲を開始してから初めてのこと。
それにくわえ、彼女は自分の車ではなくタクシーで帰ると言いだした。
家事をしっかりとこなしていた頃のイオナなら、『息抜きしてこい』と快く送り出せただろう。
タイミングよくコーヒーを差し出してくれたり、豪華な夕飯を作って待っていてくれた頃の彼女なら…
そこまで考えたところで、ローは手のひらをペチンと額にあてがう。小さく漏らした溜め息が、静寂に溶け込んでゆく。
自分しか居ない2LDK。
彼女の選んだ雑貨の並ぶ玄関で一人。
彼は確実に疑っていた。
『イオナが浮気していると。』
■□■□■□■
急にエッチを許してくれなくなったのは、丁度、部屋の掃除が行き届かなくなった頃だった。
そっと身体に触れてみるも「ごめんね。」と断られてしまう。
最初は生理だろうかと考えていたのだが、どうもそうではないらしいとトイレのコンポストを片付けた時に気がついた。
トイレの芯が蓋が閉まらなくなるほど押し込められたソレをみて、「おや?」と感じたのは言うまでもなく。
その晩リベンジを誓ったローは「そんな気分じゃないの。」の一言で、あしらわれてしまった。
どちらかというと、イチャイチャを好むタイプではないイオナだったが、そういった面には順応してくれていた。
押し切る自分を寛大に受け止めてくれ、サービス精神も豊富。
なにより、すごく相性がよかった。
ただ、"そう思っていたのは自分だけなのかも知れない"とローは感じ始めていた。
イオナは冷めてしまっているのではないか。
もっといい男を見つけて、そちらに乗り換える準備を始めているのではないか。
考えるほどに胸が締め付けられる。
仕事が忙しく帰宅が遅れるばかりではなく、昇級試験などが重なった日には苛立ちをぶつけたこともあった。
それでも彼女は「お疲れさま。」とニッコリと微笑んでくれる。
理想の妻になるであろう彼女を、一時も邪険に感じたけとはないし、裏切りを働いたこともない。
ただ、そんな気持ちが伝わっていたかどうかを考えるならば"微妙"である。
もし、タクシーに乗って向かう先が実家ではなかったら。
ついそう考えてしまい、素直に送り出せずに不貞腐れた態度を取ってしまった。
そのせいで幻滅されてしまったかもしれない。もしかしたら、もう自分など眼中にすらないのかもしれない。
「あぁ…。」
呼び止めれなかった自分を責めながら、呼び止めなくてよかったとも思う。
もし呼び止めていれば、余計なことを言ってしまい喧嘩になっていたかもしれない。
そうなるくらいなら、こうして一人でジレンマと格闘している方がずっとマシだ。
いつまでも玄関に蹲っているわけにもいかず、のっそりと重い腰を上げると足を引きずるようにして寝室へと向かう。
こういう不甲斐ないところが、イオナをどこかの誰かに奪われる理由なのではないか。
ベッドに倒れ伏し、下唇を強く噛む。
拳を強く握り、何度も布団へ振り降ろしてみたところで、この鬱憤を吐き出すことはできず──結局、情けなさに頭を抱えることしかできなかった。
■□■□■□
イオナ実家。
「ほんとに帰ってきちゃってよかったの?」
「うーん。どうなんだろう…。」
イオナは母の問いかけに、出掛けに見たローの様子を思い出し肩を竦める。
いつもの彼なら快く送り出してくれるはずなのに、なにか言いたげに俯いていた。
その理由を問いただしてからにしようかと思ったのだけど、下にタクシーを待たせていたし、なにより着替えなどが入った大きなバックを持ったまま、立ち話は身体に悪いのでやめておいたのだ。
「ローくん、神経質なんでしょ?一人残してくるなんて…」
「でも、試験も近いし…」
「だからこそ、ちゃんと話しておいた方がよかったんじゃないの?」
「良くないって。」
「えぇ?どうして?」
「だってさぁ。流産の心配があるなんて話したら、それこそ試験勉強どころじゃなくなっちゃうと思わない?」
この問いかけに、母親は困った笑みを浮かべて俯いてしまった。
イオナは、そんな母親の横顔から自身のお腹へと目を向ける。そっと手を添えてみても、なんの変鉄もない、いつもと変わらない腹部。
それでも、確かにここに二人の愛の証である《小さな命》が宿っていた。
「もしもの時ってあるからね。」
「でも、誰にでもある可能性じゃない。」
「それでもきっと、神経質になっちゃうに決まってるもん。」
イオナは昇級試験前になると必ずナイーブになる恋人の姿を頭に浮かべ、やっぱり肩を竦めた。
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