「それは受け取れないですよ。ってか、転職しないんですか?」
「するわけないじゃん。っていうか、高級クラブなんて無理。向いてないって。」
「でも客として店に出向いてスカウトって、すごいことじゃないですか!」
「えぇー。あぁいうのって、誰にでも声かけるんじゃないの?」
退店後、取引先の相手を送り出したところで、その店のスタッフに呼び止められ名刺を受け取ったイオナ。
最初は意味がわからずポカンとしたのだが、相手の話している内容からして勧誘されているのだと気がついた。
誉め殺されるほどに「人手不足なのかな。」程度にしか思えなくなり、最終的にはひきつった愛想笑いで差し出された名刺を手に取ることとなったのだが。
そんな経緯で手にいれた名刺とはいえ、第三者の手に渡すのは決してよろしくない。
使うことはないとわかっていながらも、再びポケットにしまいこんだ。
「イオナさんって自覚ないんですか?」
「なんのこと?」
「今日の接待だって、イオナさんがセクハラされないための配慮じゃないかってみんな噂してましたよ?」
「どういう意味よ。」
「そのまんまですって。」
後輩がニタッとした笑みを浮かべている理由はわかっていた。だからこそ、あえてなにも答えない。
─影でおじさんキラーなんて言われて、嬉しい訳がないじゃないか。
あちこちの取引先の男性や、会社の上層部から愛人候補生的な扱いを受けていることは自覚していた。
今日のこのスカウトの一件で、どうやら自分の立ち振舞いに原因があると理解したもののそれが解決策に結び付くはずもなく…
そうこう考えているうちに、ホテル街を抜け、駅へと向かう人の流れに紛れ込んだ。
23時を迎えようかというこの時間に、スーツ姿の男性の姿が目立つ。
不意に付き合って5年にもなる恋人のスーツ姿を思い出し、イオナは口元をほころばせた。
ここのところあまり逢えてはいないが、それでも一番大切な存在であることには変わりなく、なにより…
「ほんとのとこを言えば、とっとと寿退社したいんだけど。」
これが本音だ。
お互いに忙しくて逢えないならば、とっとと結婚してしまえばいい。というのがイオナの考えだった。
おまけに仕事さえやめてしまえば、おっさんたちにも逢わなくて済むのだから。
夢をみているのではなく、現実的なことを考えた上でそう口にしていると、彼女の後輩はわかっているらしい。
「もう逆プロポーズでいいんじゃないんですか?なにやっても気づいてくんないんでしょ?」
「向こうのタイミングもあるだろうし、下手したらそこまで考えてないかも知れないし…。」
「そういうときはゴムに穴を…って、そんな目ぇしないでください。」
下ネタをサラリ口にした男に、批判的な目を向けながら駅の改札を抜けるイオナの口調は冷たい。
「あんたって後輩としてはやりやすいけど、男としては下の下よね。」
「酷い!?せめて下の上くらいにしてくださいよ!」
微妙な訴えを口にする後輩をあしらいながら、イオナは階段を下り始めた。彼とはホームが違うため、ここでお別れ。
「はいはい。総合評価はE判定ってことで、お疲れさんでした。」
「それ何段階中なんですか!?じゃなくて、おつかれさまでしたぁあああ〜。」
振り返ることなく片手をあげて挨拶を済まし、バックから取り出したスマホへと視線を落とす。
「新着メールはなし…か。」
少々アルコールが入っているからなか、はたまた後輩とのやりとりを子供っぽく感じてしまったからか。
無償にシャンクスに逢いたいと感じていたイオナだったが、
─まだ仕事中かもしれないし。
邪魔になってはいけないと配慮し、連絡をいれることなくスマホを元の場所に戻し、階段をせかせかと登り始める。
ここで鉢合わせした降車した人の群れを掻き分け、タイミングよくホームに停車していた電車へと乗り込んだ。
あと1本電車を遅らせていれば、シャンクスと逢うことが出来たのだが、イオナにそんなことがわかるはずもなく…
彼女を乗せた電車は、ゆっくりとホームを離れた。
○●○●○●○
近所のコンビニで雑誌を立ち読みした後に帰宅したイオナ。
マンションのエレベータから降りたところで、自宅の前にしゃがみこむ人影が視界に飛び込んできた。
その時こそ驚いたが、俯いた人影の頭部が見慣れた赤毛であることに気がつき、思わず安堵の笑みが漏れる。
合鍵を忘れたにしても、いつから待ってたんだろう。
唐突に家にくるのはよくあることなので、特に気にすることもなく歩み寄り、いつもの調子で声をかけた。
○●○●○●
キーケースにはまる合鍵を眺めながら、シャンクスは決意する。
今まで通りに過ごすことにしよう。と。
自分から手放す気にはならないし、それならば焦る必要はない。
完全に逃げではあるが、冷静になっているつもりで混乱したままの彼には、それが"早まった答え"であると気がつけない。
今だ晴れない悶々とした気分を深い溜め息に乗せて吐き出しながら、キーケースをポケットにしまい込んだ時。
「仕事お疲れさま。」
唐突に投げ掛けられた労りの言葉。
それは一番逢いたい相手でありながら、一番話したくはない相手の声だった。
その濁りのない響きが脳へと届いたことにより、考え事に費やしていた分の意識がぼんやりと引き戻される。
ゆっくりと顔を持ち上げたシャンクスの目に映るのは、大好きな恋人の柔らかい微笑み。
ここでやっと完全に意識がハッキリとして、彼は現実のこの状況を理解した。
「あっ、お、おう。」
「いつからここで待ってたの?」
「あ、いや…。その、なんだ…。」
ここにいた理由を話す訳にもいかず、言葉を濁してしまうシャンクス。
どれだけ頭の中で決意したところで、彼女を前にしてしまえば"いつも通りに過ごす"なんて無理なのだろう。
そんな彼の動揺を見抜いているのかいないのか、イオナは小さく笑って肩をすくめた後、バックから鍵を取り出す。
「ま、いいや。遅くなってごめんね。ご飯は食べてるの?」
「あぁ、まぁ。腹は減ってない…」
いつもよりずっと覇気のない声でシャンクスは答えた。
実際、彼は夕飯を食べてはおらず、あまりのショックで空腹感すら感じていない状態だったのだが…
「そっか、よかった。私も取引先の接待で済ましてきちゃったんだよね。」
逢いたいと思っていたタイミングで訪ねてきてくれたことに舞い上がっていたイオナが、それに気がつくことはなかった。
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