居酒屋でのバイト中。
イオナがついた何度目かの大きな溜め息は、換気扇の音を上回る。当然のことながら、バイト仲間であるゾロの耳にも届いていた。
「どうしたんだよ、イオナ。」
「うぅーん。なんかね。」
「話せよ。聞くだけ聞いてやるから。」
彼は瓶ビールのラックを椅子がわりに腰かけると、冷蔵庫の中を整理していたイオナに視線を送る。
「そんな見つめないで〜。」
「見つめてねぇよ。ほら、いいから話せ。」
しつこいくらいに聞いてくれるのは嫌いじゃない。なにより、彼にはこれまでも様々な相談をしてきた経緯がある。
お兄ちゃんのような口調に安堵感を覚えたのは間違いなく、イオナは冷蔵庫を閉じつつ、しぶしぶ口を開いた。
「ナミに合コン誘われた。」
「へぇ。」
「週末に駅前の時計台の下で待ち合わせって。なにそれって感じ。」
「ふーん。」
「気分乗らないんだよね。」
「そうか。」
「え、まって。ほんとに聞くだけなの?」
話している途中、短い相づちを打っていたはずの彼が、興味なさげにジャンプを流し読みし始めたことに驚いた。
さきほど抱いたばかりの兄のような安堵感は早急に失われ、なんだか裏切られたような喪失感が先に立つ。
「あ?なんだよ。」
「いやいや、相談乗っといて漫画って…。」
心底呆れた。つい、そんな言い方になってしまうイオナに対して、ゾロはこちらこそ呆れてしまったよ。と言いたげに口を開く。
「背中押してほしいなら押してやるけど。」と。
漫画を閉じ、立ち上がった彼の目には容赦がなかった。痛いところをついてやる。とでも言っているようだ。
途端に、イオナは動揺した。
自分が目を背けていることに触れられるのは、誰だって嫌なことだろう。
冷蔵庫はすでに閉じたはずなのに、まだ冷たいものに触れている気がした。
「好きな奴がいるから行けないって話なら、とっととコクればいいだけだろ。」
「簡単に言わないでよ…。」
片想い中の相手が誰か知らないから、そんなこと言えるんだ!と言ってやりたい。でも、言えるわけがなかった。
「でも、このままじゃ平行線だろ?」
「元カノなんかが振られてる姿、散々見てきてるんだよ。私は、あんなの耐えらんない。」
イオナは小さな丸い椅子に腰かけ、自身の靴の爪先を見つめる。頭に浮かぶのはキッドの寝顔だ。コタツでくつろぐ猫みたいに、脱力しきった愛くるしい…
もし告白をしてフラれれば、こっぴどく突き放されれば、自分は立ち直れないだろう。あの寝顔ももう見れないだろう。
「そんなことになるって、決まってる訳じゃねぇだろ。」
「なる確率のが高い。」
なにより怖いのは、断るのがめんどくさいからと交際を受け入れられ、嘘の愛を囁かれ、身体に触れられること。
彼のことが好きだからこそ、そうなることは避けたかった。
もしそんな関係になってしまったら?と考えただけで、身が凍ってしまいそうだ。
「ネガティブだな、ほんと。」
「今以下になるくらいならこのままがいい…。」
「ふーん。いろいろ考えてんだな。」
ゾロは腑に落ちたような言葉を呟きながらも、全く共感できないといった顔をする。相談しておいてなんだが、自分は進展すらも望んでいないスタンスなのだ。
背中を押されても尻込みし続けることは変わらない。
「嫌われるの怖いし。」
「嫌いになんのが怖いんだろ。」
「そうかもしれない。」
涙が出そうになるのをごまかすように、イオナは慌てて立ち上がりグッと伸びをする。
彼はわかっている。
このままでは現状維持すらも望めないと。
そしてそんなことは彼女も理解していた。
「立ち止まって予想ばっかしてないで、前に進んでみろって。」
再び背中を押すようなことをゾロは言う。そこには悪意は一切なく、むしろ本当に応援しているということなのだろう。
イオナは「うん。」と短く返事をし、その場を後にする。
バイト仲間の前で泣いてしまうのもシャクだ。なにより、ゾロの前で泣いてめんどくさがられるのが嫌だった。
「前に進む…か。」
裏口から店の外にでる。夜風は冷たく、半袖の制服のままでは鳥肌が浮いた。
でも高ぶった感情を沈めるにはちょうどよく、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込むと妙に心地が良かった。
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