ロー短編 | ナノ

お隣さん

これほどまで自由が窮屈なものだとは思わなかった。独り暮らしを始めれば、楽になれると考えていたのに、それは大間違いだった。

狭いワンルームになにが詰め込めると言うのだろう。少なくとも、雑誌で見るようなお洒落な部屋にはならなかった。できなかった。

シングルサイズのベッドに小さなテーブル。二段と三段のボックス型収納を並べた上には32型の薄型テレビを乗せてみた。この部屋そのサイズは奮発しすぎた。いったいどこにパソコンやMDコンポを置けと言うのだろう。

備え付けのクローゼットに洋服を押し込んだところで、圧迫感は抑えられない。

これなら実家の自室の方が充分に広かった。レンジ台すら置く場のないキッチンは玄関からワンルームに向かう廊下を兼ねている。

引っ越しの一通りを終えたイオナは、最近覚えたばかりの煙草が入ったポーチを手に、ベランダへと出る。

部屋のサイズに比較して、そこはずいぶんと広かった。不動産会社の若い社員はここをテラスのように使えますよと微笑んでいたけれど、テラスにするには小さすぎると思う。

夏場に活躍したサンダルに足をかけ、冷たい外気に顔を出す。部屋で感じていた圧迫感から一時的に解放されるけれど、一望できるほど景色は広くなかった。

柵に寄りかかり、煙草に火をつける。ベランダからは向こう側のマンションの通路がみえる。

この部屋よりずいぶんと立派そうなマンションだ。通路にも視覚を遮るかのように曇りガラスが貼られていて、どんな人が住んでいるのかなんて確認のしようがなかった。

最新のライターには悪戯防止の機能がついている。ずいぶんと使いづらい。しばらくそれを眺めていたけれど、ふと視線を感じた。

それは隣の部屋のベランダからのもので、そちらへ視線だけを向けると神経質そうな顔がこちらを覗いていた。

二重瞼には見えないけれど、目の形はいい。それを際立てるスッと通った鼻筋。顔の骨格もパーツとのバランスがよく、整えられた顎ヒゲはとても似合っていて、清潔感がある。

ずいぶんと美形なのに、どうにも卑屈そうなその雰囲気がイケ好かない。好きになる必要もないのに、そんなことを反射的に考えてしまった。いつから色惚けしてしまったのだろうか。

イオナはくわえていた煙草を人差し指と中指で挟み、唇から離す。肺はすでに充分に煙に満たされていた。

「こんばんは。」

声を発すると同時に煙が唇から漏れる。それをみて、彼は不機嫌な顔をした。彼の視線は、先をわずかに灰にした煙草へと向けられていた。

煙がダメだったのだろうか。嫌煙家が多くなってきているのは理解しているけれど、そんな風に睨まなくてもと思う。

「すみません。」

火を消そうと考え手元をみるけれど、灰皿を持ち出すのを忘れていた。イオナはしばらく視線をさ迷わせた結果、「昨日越してきたばかりで。」と肩をすくめてみせる。

灰皿がない。とジェスチャーで示すと、彼は手にしていたコーヒーの缶を差し出してきた。

「ありがとうございます。お名前は?」

「トラファルガー…」

「へぇ。トラファルガー?外人さん?」

「トラファルガー・ローだ。」

ローは質問に答えない。ただ一方的に名前を告げ、また視線を煙草へと向ける。イオナは手渡された缶の中へソレを落とした。ジュッと音がして、火が消えた。

「このワンルーム、ずいぶん狭いですね。荷物を入れるまではそう思わなかったんですけど。もう、息苦しくなっちゃって。」

なにか話題はないかと話しかけてみるけれど、ローのブスッとした表情は崩れない。初対面でするには失礼な話題だったろうか。

もしかしたら、彼はこの間取りに満足しているのかもしない。

手持ち無沙汰だった。煙草が吸いたい。もしくは、甘いカフェオレが飲みたい。イオナは部屋に戻ろうかと考えた。

けれど、彼の視線が気になって身動きが取れない。だいたい、人のベランダを覗きこんだまま無口でいるなんて不躾にもほどがある。

「あの、煙草は消しましたけど。まだ、なにか?」

少しだけ冷たい口調になってしまった。ローはハッとした顔をした後に「いや、別に…。」と視線を伏せる。

不機嫌そうな顔をしているというのは、こちらの思い違いだったのかもしれない。そう思わせるリアクションだった。

「それじゃあ。」

居心地の悪さに、イオナもまた視線を伏せる。無意識に缶を握る手に力が入った。

身体の向きを180度変え、窮屈な箱に向き直る。まだ視線を感じるような気がしたけれど、そんなはずはない。なにせ、彼はさっき視線を伏せたはずだ。

スムーズに開く引き戸。サンダルから片足を抜いたところで「待て。」と低い声がした。

「どうかされました?」

「名前を聞いていない。」

「あぁ。」

「名乗りたくないのならいい。」

彼は居心地悪そうに視線を伏せた。訊ねておいて名乗り返さなかったのはこちらだ。それなのに、どうしてそんな顔をするのだろうか。

ふいに好奇心が刺激される。
この人はいったいなんなのだろうと。

相手が美形だったからとは言いきらない。けれど、不細工だったならこんな感情は抱かなかっただろう。

「お茶でもいかがですか?」

「ん?」

「まだ散らかってますけど、どうですか?」

ローは酷く驚いた顔をした。彼はベランダの仕切り、薄い壁越しにこちらを覗きこんだまま視線をずいぶんと泳がせた。警戒している。というよりは、困惑している風だった。

いい出会いもあるものだと思う。

「待ってますから。チャイム、鳴らしてくださいね。」

イオナはニッコリと微笑み圧迫感の中に戻る。やはり、このワンルームは狭かった。

後ろ手に窓をゆっくりと閉めながら、隣人の整った顔立ちを思い出す。

この空間に二人きりか。

なんだがワクワクした。独り暮らしを決めたときよりずっとドキドキした。

チャイムがなるまであと数秒。

イオナはテーブルに乗せたままになっていたマグカップを手に取り、玄関へと続く廊下へと向かった。


END

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