ロー短編 | ナノ

万華鏡

「いい加減、それをやめてくれ。」

ローが不機嫌な声で言う。けれど、イオナはやめようとしなかった。

ラップの芯より少し細い筒状のものの先を、正面に座る恋人へと向けたまま。その反対側に右目をぴったりとくっつけるようにして覗き込んでいる。その様子は、望遠鏡を覗き込んでいる姿によく似ていた。

瞳に映る不機嫌な顔。普段は退屈なまでの仏頂面が、こうして無限に増殖させるとコミカルにみえるのだから不思議だ。

イオナは右目にいっぱい広がる表情をジッと、見つめる。どの表情もすべて同じで愛想がない。けれど、その無愛想な顔の一つ一つまでも愛しい。

ローはさらに不機嫌な顔をした。

「イオナ、聞いてるのか?」

「はい。」

「だったらすぐにそれを片付けろ。」

分厚い医学書を読むことに、なんの意味があるのだろう。イオナは常々考えていたし、ローにもそれを訴えてきた。

その都度彼は「意味のあるもの自体が稀だ。」と訳のわからない持論を繰り返す。頭の悪い人にもわかるように説明してくれれば、まだ納得できたかもしれない。

けれど、イオナの恋人はそういった理解のある人間ではなかった。

イオナは「どうして?」と問う。どうしてやめなくちゃいけないの?と、筒を覗き込んだまま繰り返す。

万華鏡の中の彼は、さらに不機嫌な顔をした。たくさんの不機嫌が自分をみつめていることを自覚し、なんとなく嬉しくなってきた。

「気が散るからだ。」

「この程度のことで?」

「なにがいいたい。」

苛立っている。あからさまに苛立っているローを前にしても堂々としていられるのは、きっと万華鏡のおかげだ。普段は恐縮してしまうこの冷たい視線も、筒を潜り抜けるうちに心地のいいものになっている。

「この程度のことで集中力が途切れるなんてあり得ない。そんなの、きっとその読み物が面白くないからなんじゃない?」

皮肉混じりにそう告げると、ローはさらにムッとした顔をした。図星をつかれて、ぐうの音も出ないのだろうと思う。

「つまらない読み物なんて、読む必要がないと思う。貴重な時間を無駄にしてるよ。」

「放っておいてくれ。」

「イヤだって言ったら?」

おどけて肩をすくてみせると、ローの目が一段と細められた。口角はわずかに痙攣しているようだけど、万華鏡を回してみるとそんな微々たる動きは角膜に届く前に末梢されてしまう。

「だいたい無駄なことをしているのは、イオナのほうだろう。」

「これのどこが無駄にみえるの?」

「俺を見ることになんの意味がある。」

「意味って…。そんな。意味のあることの方が稀だと言っていたのは、どこの誰なの?」

「それは…。」

「それに、好きな人の顔を見ていたいって気持ちは、無駄じゃあないと思うけどな。」

「………。」

突然の告白にローは表情を一瞬崩した。彼はこの手のやり口に弱い。イオナは万華鏡を下ろして、上目使いにローをみつめる。

彼は居心地悪そうに視線を伏せ、「わかった。」と呟いた。

「なにがわかったの?」

「だから、それは…」

「愛情は無駄?この気持ちは迷惑だった?」

「いや。違う。俺は一度もそんな風には…」

「ちょっと考えさせて。」

まるでからかうように、イオナがソファから腰をあげる。ローはそれを追うように立ち上がった。

「なにを勘違いした?俺は別に」

「勘違いも無駄だね。それに、相手の気持ちを考えることも非生産的かもしれない。だから、その質問はムダ。かもしれない…」

イオナが発したのは、以前、ローの言っていたことだ。どうやら言った人より、言われた方の方がいろいろと覚えてらしい。

「イオナ。つまらねェ御託はいいから待て。」

「つまらない?私が?」

「…おいっ。」

イオナはバトンのように万華鏡をクルクルと回しながら、部屋を後にする。ローはドアの付近まで追いかけてきた。

「ちょっと頭を休めたほうがいいよ。きっと、脳みその筋肉が凝り固まってる。」

「脳みそに筋肉など…」

「その思考がダメなの。ちょっと休んだほうがいいと思う。」

意味がわからないといった様子のローに、彼女はにっこりと笑いかけ、万華鏡を手渡す。それを受けとることを彼は躊躇ったけれど、なかば無理矢理おしつけた。

「もっと視野を広げてね。」

恋人の浮かべる、不機嫌そうとも取れる困惑の表情。それが面白くてしかたなかった。イオナは心中で笑いを噛み殺して、部屋を出る。

「待て、話しはまだ…。」

「活字はローを愛してくれないよ?」

「……っ!!」

意味がわからないことに意味がある。だって、世の中に意味のあることなどほとんど存在していないのだから。

その人にとってどれだけ重要なことであっても、他人からみたとき、それはただの理屈となり、言い訳に過ぎないこともある。

「万華鏡じゃあ、余計に視野が狭まってしまうと思うんだが。」

ローは手元の万華鏡へと一度視線を落としたのち、閉ざされたドアの前で呆然と立ち尽くした。
そのドアの向こうで、恋人がクスクスと笑っているとも知らず。

END



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