告白回避に奮闘中バイトが終わったのは深夜0時過ぎ。そこから15分程度自転車をこいで帰宅したイオナは、玄関の前に座り込む人影に眉を潜める。
こんな深夜に、唐突に部屋を訪ねてくるような人物。連絡もなく、勝手に玄関前に踞るような身勝手な野郎。
それなりに交遊関係は広いけれど、互いの家の場所を教え合うほど親密な人は数名で、その中でもより遠慮のない関係を築いている相手。
イオナは、唯一当てはまる人物の名前を呟く。
「ロー…?」
声に反応するように、その人物はのっそりと顔をあげる。よほど疲れているのか、その動作はずいぶんと鈍い。
思わず溜め息が出る。
「来るなら来るってメールするなり、電話するなりあるでしょ?なんで勝手にそんなとこで…」
「俺にも俺の都合がある。」
「こっちの都合は完全に無視しといて、よくそんな戯言を。」
こういう時、ヒールをカツカツと鳴らして歩み寄ることができれば、クールに決まるかもしれない。とふと思った。
けれど、今日履いているのは、ずいぶんとくたびれたスニーカー。残念ながら、硬質な足音を立てることはできない。
イオナはバッグから鍵を取り出すと、それをよろよろと立ち上がったローに向かって放る。彼は顔に当たるギリギリのところでキャッチした。
「連絡したところで、今日逢いたいと言えばどうせそこらで待つことになったんだ。勝手に来たって問題ねェだろ。」
「バイトの後に用事があるかもとは思わなかったの?」
「ふん。そんな色っぽい相手がいるなら、そんなくたびれた格好で出歩いたりしねェだろ。」
「………。」
この男はいつもこうだ。自分の都合を勝手気ままに押し付け、それを正当化する。あまり当然といった口ぶりで話をするものだから、一瞬「そうかも」と惑わされまうほど。
その都度みせるしたり顔にはいちいち腹が立ち、会話を続けるほどに彼の利己な部分が露見する。
どうしてこんなヤツと友達になってしまったのだろうかと何度も頭を抱えたけれど、その原因もまた頭痛の種のためにそれ以上記憶を遡れないでいた。
イオナは手慣れた様子で鍵穴に鍵を差すローをみつめたまま、深く溜め息をつく。こうして唐突に彼がやってくるのは今日で何度目なのだろう。
部屋の前での座り込みは、他の住人の迷惑にもなるし、物騒な時代ゆえに通報対象にもなりかねない。
そうしたリスクを背負うくらいなら、短いメールをひとつ寄越し、夏場は冷房、冬場は暖房の効いたコンビニで待っているほうがよほど真っ当だ。
『天は二物を与えず。』その言葉は、この男のためにある言葉なのかもしれない。
イオナがもうひとつ溜め息をついたところで、解錠音が蛍光灯で薄く照らされたマンションの廊下に響いた。
………………………………………………………………
家主より先に小さなワンルームに上がったローは、当然のようにテレビの正面に置かれた座椅子を陣取り、その上で立て膝をついて座っている。
恋人でもない男に、勝手知ったるやと部屋に居座られて気分がいいわけがない。けれど、興味本意であちこち弄られるくらいなら、おとなしくしていてくれる方がマシだ。
テーブルの上に並べていた論文用の資料の中に、気になる文献があったのか、ローは真剣な面持ちで目を通し始めた。
一体なんの用事でこんな時間に。
バイト疲れで眠たい瞼をこすりながら、イオナはワンルーム特有のコンパクトな流しの前に立つ。
手洗いを済ませ、ヤカンに水を注ぎコンロにかける。上段の棚からペアのマグカップを下ろし、インスタントコーヒーの粉が入った瓶に手を伸ばしたその時だった。
「俺はドリップ派だ。」
「は?」
「インスタントは好みじゃねェ。」
彼はいたって当然といった表情で、注文をつけてくる。その手には、資料が握られていた。
「うちには、ドリップコーヒーなんて大層なものはありません。文句があるなら今すぐ帰って─」
「インスタントをいただこう。」
「……。」
食のこだわりを捨ててまで相談したいことがあるということだろうか。
イオナは若干の嫌な予感を覚えながらも、マグカップにティースプーン一杯分の粉を入れ、湯を注ぐ。クリープやミルクなんて上品なものはもちろんなく、牛乳をドバドバと流し込んだ。
その様子を横目でうかがっていたローはあからさまに眉を潜めるけれど、嫌なら飲まなければいいだけの話。
イオナはぬるいコーヒー牛乳となったそれを手に、ローの隣に腰を下ろす。
差し出したカップを覗き込んだ彼は、「嫌がらせか?」と小さく呟く。それが本心からくるものでたるとわかった上で、イオナはローを一瞥する。
唐突に向けられた冷たい目に、彼はシュンッと黙り込んだ。
「シャチは元気?」
「まぁ、そっちは…その、それなりだ。」
「そっちは…って、アンタ。まぁ別にいいけど。」
シャチというのは、イオナの『元カレ』に当たる存在であり、ローにとっては『今カレ』だ。
しかも、ただ単に時間の流れがそういう関係を作り上げたわけではなく、二人はそれぞれ『寝取られた側』と、『寝取った側』である。
高校時代から交際していたイオナとシャチ。浮気されている気配を感じた時には、強い憤りを覚えた。けれど、その相手が男だと気がついた時は、ショックを通り越した『何か』だったような記憶がある。
記憶がある。という表現なのは、あの頃のことはあまり思い出せないから。鮮明な記憶と言えば、三者揃う話し合いの際に「お尻での快感は捨てられない」と言い放ったシャチに対して、「私にもお尻の穴あるもん!」と食い下がったことくらい。
プライドを捨て、泣きすがるイオナに対して、「ケツの穴があったところで、ちんこがなきゃどうしようもねェだろ。」とローは勝ち誇った。
その意味を理解しきれず、泣くのをやめてキョトンとしたイオナに対して、シャチが「俺、入れられるのも好きなんだ…。」と頬を染めたのだからたまらない。
気がつけば愛情なんてものは霧散していて、「ネコでもタチでも好きにすりゃいいじゃん!」と開き直ってしまっていた。
その日は感情的なままにお開き。
後々冷静に話を聞いたところによると、二人ともこれまでホモの気は一切なかったらしい。ローにもそれまでは彼女がいたし、シャチは今でも女の子の身体は大好きだ。
どうやら、「たまたま愛したのが男だっただけ。」ということらしい。
ちなみに、ローは話し合いの後日、涼しい顔でイオナの前に現れ、"寝取った立場の癖"に「同じ男を愛した者同士、仲良くしよう。」と言い切った。
その結果が今であり、この状況だ。
そういった経緯を踏まえて考えると、ローの言う「そっちは」というのは、『エッチ』のことなのだろう。
不覚にも男二人のアンアンを想像してしまい、イオナは顔をしかめる。
どれだけ整った顔をしているもの同士でも、お尻を求め合うそれというのは表現しがたい。
なにより、排泄する場所にぶちこむのだから、前処理、後処理共に、漫画や小説のように『綺麗なセックス』とはいかないだろう。
「俺たちののろけ話を聞きたいわけじゃないんだろう。」
「うん。絶対聞きたくないね。」
「………なにも、即答することはねェんじゃ。」
「のろけるならとっとと帰って。」
不満げな顔をするローに対して、ゴミを見る目を向けたイオナは、顎でひょいと玄関を指す。途端に、彼から溢れでていた不満はなりを潜めた。
押し黙るローと、完全に待機モードのイオナ。
無言がカップを口に運ぶ回数を多くする。
このままコーヒーを飲み続けていては、本当に眠れなくなってしまう。中身がマグカップの3分の1まで減ったところで、イオナが話題を切り出した。
「相談事があるんでしょう?」
「まぁ。そういうことだ。」
「もう眠いから、サクッと終わらせたいんだけど。」
「……そんな単純な話じゃねェんだが。」
「なら、明日にしてよ。」
「それは困る。」
普段は泰然自若なローが、頑なに話したがらないくせに、聞いてくれとせがむ時は大抵恋愛の話だ。結局のろけ話に繋がるのではないかと勘繰り、一気にめんどくさくなってくる。
「はぁ。いったいなんなの。」
「その仕方なく聞いてやる。みたいな態度はどうにかならないのか。」
「ならない。いいから早く話して。」
「…………。」
ローは気まずそうに押し黙る。男同士の交際というのは公表できない分、不安や鬱憤が溜まりやすい。
イオナとシャチが別れたという話が広まった時もそうで、失恋したという設定のシャチを合コンに連れ出す勢力が暗躍し、ローはずいぶんとヤキモチを妬いていた。
イオナはその都度、合コンにはしゃぐシャチにお灸を据え、自信を持てとローの尻を叩いた。
いったい自分は何をしているのだろうと頭を抱えながらも、何度も相談事を解決に導いてやったせいか、二人の潤滑剤として奮闘させられている。
きっと今日もそんなところなのだろう。
イオナは重苦しい雰囲気をどうにかしたくて、コンポの電源を入れた。
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