エノコログサ(W)2月の半ば。
イオナの部屋の模様替えと掃除を手伝うこととなったローは、彼女から愛らしいラッピングの施されたチョコレートをプレゼントされた。
バレンタインだなんてイベントの存在など、すっかり忘れていた彼にとってそれはとんでもサプライズだ。
そこに恋愛的な意味が込められていないことなど充分にわかっていたのに、ローは衝動を抑えることができなかった。
脚立の換わりに使っていた椅子から降り、イオナを強く抱き締める。ローの心臓は張り裂けてしまいそうなほどに大きく脈を打っていた。
駆け足の心拍数に背中を押され、募りすぎた想いばかりが先走る。「またですかぁ?」とおどける彼女ごとベッドへと倒れ込んだ。
そこでやっといつもと雰囲気が異なることに察したのだろう。イオナがローの胸板を強く押して抵抗する素振りを見せた。
彼は彼女の意思を受け入れ、小さな身体の拘束を解き、その代わりに彼女に跨がり、両の手を耳の横へとついた。
二人の顔の距離はローの腕の長さ。
さすがのイオナも、この近さは照れ臭いのか困ったように視線を伏せる。
「こういうのはさすがに…」
「俺に抱かれるのは嫌か?」
「嫌とか、そんなんじゃないです。」
「じゃあ、なぜ拒んだ?」
ずいぶんと意地悪な聞き方だ。ローは「しまった。」と思ったが、口にした言葉は戻っては来ない。案の定、返事に困ったイオナは、今にも泣き出しそうな顔をした。
「俺が悪かった。」
いつだって飄々としている彼女を困惑させてしまったのは自分だ。 自分の自制心の無さに落胆しながら、ローはベッドから降りた。
彼女から向けられている視線がいたたまれない。
「怖がらせて悪かった。」
もう一度謝り、ベッドから離れようとしたローの手を、彼を追うようにして身体を起こしたイオナが掴んだ。
「勝手になんでも決めないでくださいよ。」
「どういう意味だ?」
ローは無意識に眉を寄せていた。それをみて、ぎこちなく笑ったイオナはためらいがちに答える。
「べ、別に嫌じゃないです。もし、船長が、その…、そうしたいなら。どうぞって感じで…」
言葉を選びながら話す彼女は、なんだか普段よりずいぶんと女の子らしかった。
子供のようにいじけたり、喜んだり。妙に大人っぽい態度で受け流したり、聞き入れたり。それでなくてもたくさんの表情をもっている彼女の新たな一面に、ローはまた心を奪われる。
そんな彼の気持ちなど露知らず、イオナはそれまでより少し大きな声で「私はただ…」と言い、口ごもった。
その続きを待つローは、垂れた前髪で表情の見えない彼女をジッと見つめる。
その視線に耐えられなくなったのか、イオナ はローから手を離し、ベッドの上にあった枕を取った。それをグッと抱き締め、顔の半分くらいまでを隠しているがノーガードの耳は真っ赤だ。
「船長、あの…」
「なんだ?」
「いえ、なにも。」
顔をブンブンと左右に振った後、さらに枕に顔を埋めようとする様子は、小動物のようだった。
この世の中にこんなに可愛い生き物が存在しているのか。ローは胸中で「可愛い。」を連呼する。
それでなくてもイオナに首ったけだったにも関わらず、さらに彼女に心酔していた。
「隣に座ってもいいか?」
「どうぞ…」
ローはあえて拳一個分の距離を空けたところに腰を下ろす。彼の重みの分だけマットが沈んだ。彼女がチラチラと様子をうかがっているのはわかるのだが、どう会話を切り出すべきかわからなかった。
口ごもった理由と、言おうとしたことを聞き出すべきなのかも知れないが、何故だか躊躇われる。こうして並んで座っているだけで、ひどくドキドキした。
気持ちを落ち着かせるため、冷静で居続けるためにローは指の側面をそれぞれ強く押してみる。そこには心を落ち着かせるツボがあるのだという。
右手の親指から順に始め、左手の中指の側面を右手の人差し指と親指でつまんだところで、イオナが動いた。
顔の半分を枕に埋めたままだった彼女は、膝を抱えるようにして座り直す。その後、小さく深呼吸したのがわかった。
おもわず身構えたローに向かって、イオナは恐る恐る話始めた。
「私、もし船長とそうなるなら一番が良くて…」
蚊の鳴くような声でずいぶんと可愛いことを言ってくれる。ツボ押しの効果は全くない。早る想いで心臓が爆発しそうだ。
「文不相応かもしれないですけど、でも、こちらにも覚悟があるわけで…」
この時点で抱き締めてしまいたい衝動に負けてしまいそうだった。理性で必死に食い止めるが、それとは違うもうひとつの能力が荒々しく息巻いている。
早くモノにしてしまえと。
どんなに取り繕っても、男である以上、その部分は隠せない。身体中が熱くなってくる。部屋に馴染んだイオナの香りのせいで余計に気分がそちらに流れていた。
それでも、ローは話し続けている彼女の言葉に耳を傾け続けている。
「船長が私を部下として想ってくれているのはわかってます。でもやっぱり…」
どうやらこれまで態度や言葉で伝えてきた好意が、サラリと受け流されていた理由はそれらしい。
ローは一人納得する。
彼女は与えられる全てを、『女』としてではなく『部下』として受け取っていた。想いは伝わっていたにも関わらず、その対象と噛み合っていなかったのだ。
(あぁ、よかった。)
鈍感すぎてどうにかしているのかと思っていたイオナが、まともでよかった。気持ちが伝わる相手でよかった。
ホッとした思いに包まれるローに向けて、彼女はさらに喜ばしい言葉を続ける。
「部下としてじゃなく、お、女の子として…、そ、その、私を、あ、愛していただけませんか?」と。
嬉しくて仕方なかった。ただ少なくともローは素直な人間ではない。「どういう意味だ?」と意地悪なことを訊ねる。
イオナは枕を抱き締めたまま、涙をいっぱい溜めた瞳を上目遣い気味にしてローを見据えた。
「私は船長としてのあなたも、男性としてのあなたも…」
きっと最後まで聞いてやるべきなのだろう。そうわかっていながら、彼は最後まで言わせなかった。
枕を抱き締めるイオナの腕を引き寄せ、体勢を崩した彼女をギュッと抱き締める。
あわあわとなにか言おうとした彼女に「もういい。」とだけ低く言い放った。
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