エノコログサ(U)イオナが短刀を受け取って一週間。
ローが少し早足で船内を闊歩し始めた時、クルーたちは「あぁ、もうそんな時間か。」といった顔をする。
それもそのはず。10時と15時になると、彼は決まって探し始めるのだ。
落ちつきなくキョロキョロと辺りを見渡す船長に呆れた目を向けつつも、クルーたちが取る行動は決まっていた。
「イオナちゃん。船長が…」
嬉々としてトイレ掃除に励んでいた船長の想い人に、一番乗りで彼女をみつけ出したベポが声をかける。
便器を擦っていたイオナは、一度ベポへと視線を向けた後、時計を確認しハッとした顔をした。
この時間に呼び出しがあるのは毎日のことながら、用事をしているとついうっかり忘れてしまうらしい。
彼女は慌てた様子で立ち上がり、ゴム手袋から手を抜きながら言う。
「ごめんなさい。今行きますからと伝えてもらえるかな?」
「わかった。」
イオナちゃんも大変だ。
ベポは同情色の強い目を彼女へと向けた。
本人はそんな視線を気にすることなく、磨いていた便器に水を流し、掃除用具を片付けている。
その横顔からして嫌がっている様子は感じられないが、それでも大変であることには代わりないだろう。
もともと彼女がこの船に現れるまで、船長は10時にも15時にも間食をとる習慣は無かった。
もっと言うならば、船長はティータイムなどという、上質な一時を味わうようなタイプの人ではなかった。
彼はただ、イオナにかまってもらいたいがために世間で言う「オヤツタイム」「アフタヌーンティーの習慣」を利用しているのだ。
15時はともかく、10時に間食だなんて乳幼児ではないかと言いたくなりそうなものだが、イオナは全くもってそれを不自然だとは思っていないらしい。
ベポが彼女を探し回っているローを探しに行った後、トイレの全体にフレグランススプレーを振りかけたイオナは、今日は何を用意しようかと考える。
あと2時間もすれば昼食なので、ガッツリしたものだと影響が出てしまう。
フルーツなどがあればいいのだろうが、あいにく連日の間食で食べ尽くしてしまった。
「なんかあったかなぁ。」
石鹸を使ってよく手を洗ったイオナは、迷わず食堂へと向かう。
船体は緩やかに揺れていた。
この程度の揺れならば、わざわざ手摺りを持たなくても歩くのには充分だ。
次の島に着くのはいつだろうかと指折り数えていると、突然、船体が大きく傾いた。
「うわっ」
左右に大きく身体を揺さぶられ、イオナはバランスを崩す。すぐに伏せるかしゃがみこむかをすればよかったのだが、咄嗟の判断には至らず彼女は盛大な尻餅をついた。
「痛ぁ…」
たかが尻餅。されど尻餅。
骨盤に鈍い痛みを感じながら、イオナは顔をしかめる。すぐに立ち上がることはままならないが、どうせ揺れが収まるまでは動けないのだ。
そのまま座っていようと開き直った。
その後もしばらく揺れていたが、次第に収まってくる。イオナがフラフラと立ち上がった時、突き当たりから聞きなれた足音が響いた。
それが誰のものかはすぐにわかる。
あかぎれが出来たくらいで「診せろ」「掃除はするな」と大騒ぎだった船長のことだ。腰を打ったと知れば、どうなることやら。
心配をかけてはならないと、彼女は労るように腰に当てていた手をおろした。
「イオナ、大丈夫だったか?」
「えぇ。おかげさまで。」
そう返事をしたまではいい。
一歩を踏み出そうとすると、ズキリと尾てい骨が痛む。その時、無意識に顔をしかめてしまったことに気がつき、慌てて表情を取り繕うがもう遅い。
ローが訝しげに眉を潜めていた。
バレたな。
イオナは直感する。こうなると隠しているのも逆に面倒だ。
「どこが痛むんだ?」
相変わらずの落ち着いた調子で訊ねる船長に向かって、ばつが悪そうに微笑んで見せる。
さらに難しい顔になる船長。
ここで尾てい骨が痛いと言えば、診察と治療をしてくれるだろうが、相手が船長とは言えお尻をみられるのは恥ずかしいなと、下心なくイオナは考える。
それでも隠し通せる訳がない。
別に全部を見られるわけじゃないし、船長もいやらしい気持ちでみるわけじゃないしと割り切り、イオナは告げる。
「尻餅をついてしまって、尾てい骨が…」と。
「尾てい骨…」
船長は何故か押し黙る。いつもの彼ならば過剰なまでに心配し、すぐにでも治療させろと言い出すはず。
どうしたのだろうかと、イオナが小首を傾げたタイミングでやっと彼は口を開いた。
「湿布をやる。」
「え?」
「もうすぐ島に着く。すぐに女の医者に見てもらえ。」
予想外の返事に、イオナは目を丸くしてローを見つめる。彼はその視線からあからさまに目を背け、「デリケートな部分だからな。」と呟いた。
別に痔の治療をしろと言っている訳ではないのに、デリケートだなんて言われるとなんだがこちらまで照れる。
それと合わせて、ちょっとお尻をみられるくらいと割り切った自分の軽率さを恥ずかしく思った。
船長のあとについて医務室へ向かい、湿布を受けとる。鎮痛剤も手渡され、どうしてもの時に飲めとだけ言われた。
「俺はこれから用事がある。ここで湿布を貼ったら、部屋で休んでいろ。」
やけに素っ気ない対応に、心許なさを感じるのはなぜだろう。
普段あれだけ心配するのだから今日だって…、そこまで考えたところで、自分がずいぶんとおこがましいことを考えていることをイオナは自覚する。
短刀をみつけてきてくれたり、心配してくれたり…。様々な面で目をかけてくれるのは彼が船長だからだ。
船長は決して親しい友人などではない。
この海賊団の頭だ。大黒柱だ。
あまりに距離が近すぎて、境界線が曖昧になっていた。もっと気を引き締めなくてはと、イオナが反省しはじめた時点でローはすでに部屋を後にしていた。
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