廊下での二人のやり取りがイオナの耳に届いていたわけではない。ただ彼女がローの放つ殺気に敏感だっただけ。
ドアの向こうからただならぬ気配を感じたため、「ジャンパールったら、なにをやらかしたのかな?」くらいの感覚で顔を出したのだ。
まさか自分が部屋に招いたことで、カーテンをつけてもらおうとしたせいで、彼が怒られているとも知らず…
呑気に「ちょうどいいところに」などと言い放ったのだ。
イオナはローのことを「第三者の前で部下を叱り飛ばすような人ではない」と思っている。
実際のことろは"彼女の前では叱責しない"というだけなのだが、見えていないところのことをイオナが知るはずもなく。
自分が顔を出しさえすれば船長の怒りは収まるだろうと考えていた。
案の定、険しい表情だったローは表情筋の緊張を解く。放っていた殺気も最小限に納められる。
(ジャンパールがバラされなくてよかった。)
イオナはそこで小さく安堵したのち考える。 なぜジャンパールが殺気を向けられるはめになったのかと。
思い当たる節はなく、また彼に問題があるようにも思えない。むしろなんでローがここにいたのか。彼が欲しがるようなものは、この先にはない。あるのは掃除用具ばかりが押し込められた物置だけだ。
不思議に思いつつ、視線をローからジャンパールへと向ける。するとどうだろう。彼が「お前のせいだ。」と言いたげな目で、自分を見ている。
はて?なにごとだろう。
何か悪いことをしただろうかと記憶を巡っていたところでふと思い出す。この部屋をあてがわれた時にローが放った言葉を。
『部屋にクルーを招くな。なにかあった時に困る。』
あぁ、そういうことか。
俯に落ちるとはこういうことなのだろう。
頭上にピンポンマークが浮かんだかと思えば、ここからはイオナのターン。
ひとまず、船長を持ち上げる。そのまま気分のよくなった彼を、部屋に引きずり込んでしまえば、もうジャンパールが怒られることはない。
妙な理屈ではあるが、イオナは確信をもってローの手を引き部屋に招く。ジャンパールに口の動きたけで謝罪の言葉を述べて。
賢いのか、適当なのか。
どちらとも取れる彼女の行動は一応、功を奏していた。
……………………………………………………
イオナは自分がまだローの腕を握ったままであったことを思い出し、慌てて手を離す。途端に今度はローが彼女の腕を掴んだ。
そのまま引き寄せられ、彼女の身体はスッポリとローの腕の中に収まる。
「あの、船長…?」
「なぜだ。」
「へ?」
「なぜ最初から俺に頼まない…」
怒っているのか嘆いているのかわからない。彼の言葉にイオナは頬を緩める。
「だって、船長いつも忙しそうじゃないですか。」
「でも、俺は…」
何か言いかけたローの胸板を押し、身体を離す。一度抱き寄せられてから、何度かこういうことがあったので、イオナはあしらい方を知っていた。
「ハグハグはもういいんで。カーテン、お願いします。」
イオナの笑顔にムスッとした表情で、頷いてみせるローの姿は他のクルーに見せられたものではない。
「船長、あとワードローブの上が埃っちゃって。拭き掃除もお願いします。」
「わかった。」
カーテンレールにサクサクとフックをかけ、カーテンを設置していくローの指先をイオナは真剣に見つめる。
その視線に彼が気がつかない訳がなく、酷く照れていた。
「船長の指ってほんと綺麗ですよね。」
「そうか?」
「はい。すごく素敵です。」
なんの下心もないのだろう。ただ率直な意見として、『素敵』だと言っている。そんなことは分かりきっているのにローの心拍数は速まる。
もとより、イオナの匂いが詰まった、淡い色合いの部屋に二人きりでいるのだ。その緊張感は想像を遥かに超えていた。
「船長、そっちじゃなくて…」
「あ、すまん。 」
彼女にばかりに意識が向いて、カーテンレールを嵌めているような心理状態ではない。
もう一度触れたい気持ちが高まり、まだ半ばというところでローは腕を下ろしてしまった。
「船長?」
「イオナ、気分が変わった。」
「へ?」
ポカンとするイオナの方へと振り返り、彼はオレンジ色のチークがのせられた頬に触れる。それでも彼女は相変わらずのポカン顔だ。さすがのローも苦笑した。
「押してダメなら引いてみろと言うが、引いたところで「忙しそう」の一言で片付けられてしまうとはな。」
「はぁ…」
「俺の言っていることがわからないか?」
「はい。あ、あの、すみません…」
「謝るな。別に怒っているわけじゃない。」
「でも、呆れて、ますよね?」
イオナは探るようにローの瞳を覗き込む。その仕草にクラっとしたのは言うまでもなく、ローは「あぁ。」と返事しながらも頬を緩めた。
「なんで笑うんですか?」
「あまりにも鈍感すぎてな。」
「え?」
「聞こえなかったならいい。」
真面目にやっている方が恥ずかしくなってくる。全く理解していないらしい彼女の頬に触れていた手を下ろし、ローは再びカーテンを取り付ける作業に戻る。
窓へと向き直った自分の背中をみつめながら、イオナがニヤニヤしていたともしらず、彼は 作業を終わらした。
今度はワードローブの拭き掃除だ。
ローはドレッサーの椅子を脚立換わりにワードローブの前に持ってくると、靴を脱いでそれの上に立つ。
「雑巾はあるか?」
「はい。」
受け取る瞬間に指先が触れあう。イオナにとってはなんともないことなのだろうか、ローからすればドキドキイベントであることに変わりない。
カッと顔が熱くなるのがわかった彼は、赤面したことがバレぬよう、慌てて視線をワードローブの天板へと向け──硬直した。
なぜならそこには埃など一ミリも積もってはおらず、その代わりにピンク色のラッピングが施された包みが存在していたのだから。
「イオナ、これは…」
声が震えた。予想だにしたいプレゼントに胸が詰まる。なんてことだ。なんてことだ。とその言葉ばかりが頭をめぐる。
そんな放心気味の彼に向かって、イオナは声を弾ませた。
「ハッピーバレンタインですっ。」と。
Next white Day story.
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