翌日。
ローとの約束通り、イオナは普段通りの生活に戻っていた。
尾てい骨の痛みはすでにないようで、やりきれていなかった食器類の整理整頓を朝一で行うほどに元気な様子。
そんな彼女を心配そうに見守っていたのはベポで、最近張り切りすぎじゃないかと声をかける。
「うーん。昨日も休んじゃったし、そこまででもないよ?」
「疲れが溜まってるから怪我なんて…」
彼の言いたいことは、イオナも充分理解していた。
潜水艇での暮らしが短いとはいえ、一応乗船を許される程度の身体能力は持ち合わせている。
そんな自分が、船体が大きく揺れた瞬間に適切な対応が出来ないなんてのは客観的にみれば不自然だ。
ベポとしては疲労が蓄積しすぎで、心ここにあらずだったからではないかと言いたいのだろう。
「それでもやりたいんだよ。」
イオナはニッコリと笑う。
ベルトポーチに入れられた短刀の重みを感じる度、もっと頑張らないとと思ってしまう。
いい意味で向上心を刺激されているし、モチベーションも底上げされている気分だった。
「船長はイオナちゃんに無理なんてしてほしくないって思ってると思うよ。」
「だから無理なんて──」
ここで会話は打ち切られた。
イオナの怪我の状態を心配し、早朝から彼女の部屋を訪ねて空振りに終わった船長が食堂に現れたからだ。
「船長、おはよう。」
彼女の方から明るく声をかけると、ローはこれ以上ないくらい不機嫌な顔をする。
「イオナ、お前ってヤツは…」
「もう痛まないんですよ?」
「そういう問題じゃない。」
ふて腐れ気味にテーブルについたローに、イオナは入れたての珈琲を差し出す。
「怒らないでください、船長。」
「怪我人は黙って寝てればいいんだ。」
「もう治りましたから。」
「今日、島に着く。判断は医者に診てもらってからだ。」
ツンケンと告げる船長に対して、イオナは下唇を突きだして抗議するが、サッと目を反らされてしまう。
別に医者が嫌いだと言うわけではないが、島についたならまずは観光したい。買い物をして、食事をして─。
もし診察の段階で躓いたら、なにも楽しめなくなってしまう。
何を目的として航海しているのかを船長は口にしない上、予定も航海士のベポとペンギン、シャチ辺りしか聞かされていない。
このチャンスを逃したら次はいつ、陸地を人混みを、町並みを満喫できるのか。
考えるほどに憂鬱になる。
そんな顔をしてもダメだ。と船長に言われるまで、イオナは自分が涙ぐんでいたことにすら気がつかなかった。
結局、彼女にできる仕返しといえば、朝食のお茶を緑茶ではなく梅昆布茶にして、おにぎりの具に梅肉を紛れ込ませることくらい。
噎せ返る船長をみてイオナはクスクスと笑っていたが、後から起きてきて状況の読めないジャンバール辺りはヒヤヒヤしていたに違いなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「─と言うわけで、俺とイオナ以外は船番を残して自由行動だ。」
船長の言葉に、イオナは唇を閉じたまま思いきり息を吐き「ブーッ」と不満げな音を出す。
それが昨日の朝の態度と、いや、普段周囲に見せている態度とあまりに違うため、彼女の本性を知らないクルーたちは目を見張る。
ただ、ローやベポはイオナが若干幼稚であることに気がついていたため、動じたりはしない。
ローが視線で諌めたところで、「ケッ」と不満をあからさまに態度にだすのでどうしようもなかった。
解散の声がかかると同時、それぞれが目的地へと足を進める。イオナは不満げに靴の先で土の地面を掘っていた。
「そんなに病院が嫌か?」
ローの問いかけに、彼女は「違います。」とふてくさて答える。
「じゃあなにが不満なんだ?」
「観光…したいじゃないですか。」
「診察が終われば、結果次第で─」
ローとしてはイオナの身体が心配だっただけだ。短刀を渡してからというもの、彼女が"無意識に焦っている"のではないかと疑っていた。
今回の病院だって口実で、二人きりで出掛けるためのきっかけに過ぎなかった。
「船長は意地悪ですよね。」
「ずいぶんと俺の評価が下がったみたいだな。」
文句を言いながらもついてくるイオナが可愛くて仕方ない。ローは笑ってしまいそうになるのを堪える。
「もう大好きじゃないですよー。」
「言ってろ。」
言葉では素っ気なくしながらも、彼はさりげなくアイスクリームを買い与える。
ノリノリで味を選んだ後に、「別に許した訳じゃないですから。」とブー垂れる彼女をみていると、穏やかな気持ちになっていた。
他のクルーの前ではここまで甘くしてやることはできない。二人きりだからこそであり、イオナもまたここまで傲慢に振る舞うのはそのためだろう。
「俺は許されないようなことはしてないはずだが─。」
アイスクリームを食べ終わるのを待ち、二人はこの島で一番大きな病院を訪ねた。
この町にはここにしか病院がなく、総合的になんでも治療できるよう医師が数名集められているらしい。
ローはまず窓口で「女の医者はいるのか」と尋ねる。イオナとしては、男の医者でもよかったのだが余計なことは言わないことにした。
「女性でないといけない理由は?」
「患者が女だからだ。」
「はぁ。」
窓口の女性の不思議そうな顔と、ローの真面目な顔のギャップに笑けてくる。が、空気の重い病院の待合室で笑い出すほどイオナはバカではない。
とりあえず、ローの後ろで困ったような顔をしていた。
そして窓口は答える。
「この町には女医はおりません。男性の医師ばかりです。」
「……。」
「どうされますか?」
押し黙る船長に窓口が声をかけると、「イオナ、帰るぞ。」と彼は言う。
「診察は…」
「痛みはもうないんだろう?」
「まぁ。」
「ならいい。」
あれほどまでに診察にこだわっていたローが、唐突に意見を変えた。
その理由は簡単で、相手が医者とはいえ、無防備に腰の辺りをみせるような真似はしてほしくなかったし、肌に触れさせてほしくもなかったため。
そんな理由がわかるはずもなく、不思議そうに小首を傾げるイオナ。彼女と目を合わせないよう視線を伏せつつも、ローは「行くぞ」と威厳たっぷりに指示を出す。
彼女はその場では「はい。」と素直に従ったものの、病院からでるやいなや「買い物してもいいんですか?」と甘えるようにローに訊ねた。
「なにか欲しいものがあるのか?」
「いえ。別に。」
まるでそれが当然であるかのような彼女の返事に、思わず笑ってしまう。
「なにがおかしいんですか?」
「いや、なにもない。それより─。」
ローはイオナの部屋の模様替えを提案する。雑貨やカーテンなどを買い換え、イオナ仕様の部屋にすればいいと。
もともとは物置きにしていた空き部屋にベッドを担ぎこんだだけの質素な部屋。彼女が相当片付けを頑張ったおかげで、小綺麗にはなっているが女の部屋にしては小物やカーテンなどが地味だった。
「でも、お金かかりますよ?」
「なに。気にすることはない。」
実際、デートを目的にイオナを連れ出していた彼は、そこそこの額を所持していた。
その上、治療費がかからなかったのだから予算としては充分だ。
会話の時には遠慮がちな表情をみせていたイオナだが、試しに一件入ってみればいいと小さな雑貨屋に引き込んだ段階で目の色が変わった。
「かわいい!」「綺麗!」「オシャレ!」
年頃の女の子らしく浮かれるイオナの姿を店の隅から観察しながら、ローは頬を緩める。
こんな風に喜んで貰えるのなら、多少の出費などなんの痛手にもならない。
あとでクルーに「なんに使ったんですか?船の修繕費積み立てっすよ?」と言われても気にならないい。
船長の権限で押しきってやろうなどと、横暴なことを考えていた。
「ほんとに買ってもいいんですか?」
「好きにしろ。」
「たくさん?」
「欲しいものは全部買っておけ。」
つい素っ気ない態度を取ってしまうが、彼女は気にしていない様子。おばさんの店主と会話をしながら、あれやこれやをせっせと選び始める。
荷物が多くなりそうだ。飯の後にすればよかった。などと考えていたところで、イオナから声がかかった。
出入り口付近に彼女を待たせ、会計を済ませる。小銭を受けとる際に店主から冷やかしの言葉をかけられ、不覚にも赤面したところでローは気がついた。
「俺の連れは…?」
「おや?さっきまでそこにいたんだけどね。」
彼が眉を寄せると店主はあれれと首を傾げる。どうにもこの人物には正体を悟られていないようだとローは感じた。
が、それどころではない。
イオナが唐突にいなくなった。
店の作り上、会計を済ましていたローが、彼女の立っていた出入り口に背を向ける形にやってしまうのは仕方のないこと。
ただ、店主は対面状態のはずなのだが─
そこでローは何かの能力者の仕業なのではないかと勘ぐった。気のいい店主から紙袋に入れられた雑貨を受け取り、店を出る。
イオナにもしものことがあればと思うと気が気じゃない。
さきほどまで浮かれ気分で歩いていた町並みが、迷路のようにみえてくる。冷静でいることができず、判断力が鈍る。
脳髄で鳴り響く警告音に、背筋を伝う冷たい汗。
他のクルーたちも呼び出し、捜索に合流させようかと電伝虫を胸ポケットから取り出したところで、彼は足を止めた。
「あ、船長!」
ローが目にしたのは、道の隅にしゃがみこむイオナの姿。どうやら、そこにいるふてぶてしい猫をねこじゃらしで遊ばせていたらしい。
彼女の関心が猫からローへと移ったため、まんまと猫じゃらしが奪われた。
「あぁー。ダメだよ?とっちゃダメ。」
猫からそれを奪い返そうとするイオナに彼が歩み寄ると、猫がローを警戒し威嚇する。
それでもおかまいなしで彼が一歩踏み出したことで、猫はシャッと不機嫌に吐き捨てその場をそそくさと立ち去った。
「船長、走ってきたんですか…?」
肩で息をしていることに気がついたのだろう。イオナは不思議そうに小首を傾げる。
自分の立場をわきまえろ。勝手に出歩くな。と説教すべきところなのだろうが、それよりも彼女が無事であったことに対する安堵感の方が強かった。
ローは無言で更にイオナに歩み寄る。ただならぬ船長の雰囲気に呑まれ、彼女は立ち上がった。
どうやら、やっと自分がよくないことをしたと気がついたらしい。ばつが悪そうに微笑んでみせる。
そのタイミングで、足元に紙袋を置いたローは、イオナを抱き寄せた。
ギュッと強く抱き締めた。
「あの、えっと…、船長…」
状況が飲み込めず、彼女は困惑と驚きの混ざった声をあげるが、その腕の力が緩まることはない。
「俺に心配をかけるな。」
「……。」
「姿が見えなくなった途端、気が気じゃなかった。」
「あの、船長…?」
「イオナ、俺はお前が好きだ。手放すつもりはない。だからそのつもりで─」
俺についてこい。
そう言おうとしたローの言葉を遮るのは、イオナのクスクスする笑い声。
なんだか急に照れ臭くなってくる。
「なにがそんなにおかしい?」
勢いとはいえ、気持ちを伝えたと言うのにこの反応は一体…。ローは眉を寄せるが、その表情は彼の腕の中にいるイオナには見えない。
「だって、船長ってば気にしすぎなんですもん。」
彼女は相変わらずクスクスと笑いながら、すごく嬉しそうに、楽しそうに言う。
「確かに、さっきは大好きじゃなくなったとか言いましたけど…」
「私はずっと船長のこと大好きですし、どこにもいきませんよ?」と。
イオナの口にする大好きの意味が、恋愛においてのそれでないことをローは知っている。
違う。そうじゃない。
彼はそう声をあげたかったが、彼女があまりにも幸せそうに笑うので言い切れなかった。
こうしてまた、彼女はヒラヒラとローの手をすり抜ける。
まるで猫を冷やかすねこじゃらしのように。
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