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淡恋B

12月。

ただみているだけでよかった。
挨拶を交わせるだけで充分だった。

居ても居なくても変わらない。そんなちっぽけな私を見つけ出して、貴方は何をしたかったんだろう。

イオナはトイレの個室で深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに酸素を吸い込み、堪えきれずにこぼした大粒の涙を流した。

『知ってる?エース君、彼女が出来たらしいよ。』

体育終わりの着替えの時。クラスメイトがそんなことを話していた。最初は質の悪い噂話だろうと聞き流していたのだけど、どうやらそうでもないらしい。

他クラスの女子が確認したらしいのだ。エースくん本人にではなく、その親友であるサボくんに。確かにエースくんはそういった傾向の話題を好まず、対照にサボくんはずっとオープンだ。

くだらない噂話だと思っていた話が、センセーショナルなニュースとなった瞬間。

心がギュッと痛くなった。息苦しくなった。
期待なんてしていなかったはずなのに、ずっと忘れていたはずの心細さを感じてしまった。

ショックだと口にするかまめかしいクラスメイトより、自分の方がずっと傷ついている。そう自覚するのが何より怖かった。不安だった。

なんとか制服に着替え終え、トイレに逃げ込んだ時にはすでに、声にならない浅い呼吸が喉から溢れていた。苦しくて。痛い。感情が重たい。

深呼吸して嗚咽を漏らす。
泣いても、泣いても、泣いても。

「なんで、こんなに…。」

痛みを切りはなそうとする度に、感情は増すばかりで、思い出は膨れ上がるばかりで。好感だと思っていた感情が、好意に満たないと感じていた思いが、こんなにも膨れ上がっていたんだと痛感する。

どうしてこんな形なんだろう。

思うほどに辛くて、苦しい。

始業のチャイムがなった。
けれど、トイレから出られる状態ではない。
こんな泣き腫らした顔のまま、教室に遅れて入るわけがなかった。

「何してんだろう…」

自分は見ているだけの人間。
挨拶をするだけの関係。

それ以上でも、それ以下でもないはずだったのに―。




放課後。

結局、教室には戻れなかった。ずっとトイレの個室の中で過ごしてしまった。制服には芳香剤の臭いが染み付いていて、気持ちが悪い。

一体何人の生徒が、教師が、私が教室に居なかったことに気がついただろう。イオナはポツポツと廊下を歩きながら、そんなことを考える。

去年までは他人の目なんてどうでもよかった。もしあの頃の自分なら、授業をサボったところで、その達成感しか感じなかった思う。

でも、今は違う。

教室に戻らなかった自分を心配してくれた人を見つけようとしている。心配してくれたのではと期待してしまっている。

そんな自分がおこがましく思え、腹が立った。

イオナは無人のはずの教室の前で立ち止まり、職員室で借りてきた鍵を鍵穴に差す。立て付けの悪いせいで重くなった鍵を半回転させると、静かな廊下に開錠音が響く。

俯き気味に固いドアを横へ滑らせると、教室独特こもった匂いがすると思っていた。けれど、鼻腔をくすぐったのはまた別の『香り』。予想外の香りにイオナは顔をあげる。

「よう。」

一番前の席に座ったまま、エースくんはニカッと笑って片手をあげた。もう一方の手にはスマホを持っている。それで時間を潰していたのだろう。

何もいえない。どうするべきかわからない。

硬直する私に向かって、エースくんは手招きする。まるで屈託のない笑顔で、早く来いと言いたげに。

「な、なんで、いるの?」

声が震える。目頭が熱くなる。逃げたしたい気持ちと、近づきたい気持ちが半分半分。トイレ臭くなってしまった自分にも後悔した。

「さて。なんででしょうか?」

エースくんはイタズラっ子のような笑顔を浮かべ、人差し指で鼻の頭を掻いた。その表情があまりにも眩しくて、私の視界は一気に霞んでしまった。

つづく

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