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淡恋A

文化祭。

それは年に一度、たった一日のみのイベントのくせに、それまでの日常に大きな変化をもらたす。授業は短縮され、準備時間にあてられる。また放課後であるにも関わらず、生徒たちはいつまでも教室に残り続ける。それが使命であるかのように。

例に漏れず、イオナもそうだった。

常に影であり続けていた自分に、役割が回ってきた。そのことに彼女はずいぶんと驚いていた。

一人一役だと言っていたにも関わらず、存在を忘れられなんの役回りも与えられなかった中学時代。その名残りなのか、昨年も似たような扱いだったせいで、今年もまたなにもあてがわれないものだと勝手に期待していた。

にも関わらず──

「あの…。」

ローラーで看板となる板にベースの色を塗装しながら、イオナは小さく欠伸する。そのタイミングで声をあけてくるなんて、ずいぶんと失礼な奴だと思う。

目頭に浮いてきた涙を指の背で適当に拭って顔をあげる。相手はクラスでも割りと利発な分類に入る、運動部の男子だ。名前は…なんだったろう。

「なんですか?」

「俺、部活行きたいんだけど…」

「あぁ。どうぞ。」

「まじでいいの?」

「どうぞ。」

君が居ようと居まいと、私がこのローラーを転がし続けることは変わらない。むしろ、一人の方が気遣いなしでいけるのだから、ありがたい。

イオナは、内心呟く。

二人が塗色していたのは二人の学生が並んで両手を広げたくらいの長さの看板。たいした面積とは言えないけれど、安物のペンキのせいか、重ね塗りが必須だった。

乾くまでの間の待ち時間に、馴れない男子と二人きりというのも辛い。もとより、仲の良い友達などいないのだけれど。

イオナがあっさりと仕事の放棄を同意したことに、クラスメイトは面食らった顔をする。けれど、それに対しても彼女はリアクションしなかった。

あまりに無愛想にしすぎるのは、逆に怒っていると捉えられ兼ねない。けれど、そんなことに気が回るほど、イオナは人間関係に興味がなかった。

「それじゃあ、後、よろしく…」

歯切れ悪く言葉を残し、その場から離れるクラスメイト。引き留められれば、仕事を継続するつもりだったのだろう。けれど他人に無干渉がイオナが、彼を引き留めるはずがなかった。

ひとりになった後も、イオナは黙々と作業する。文字を書くのは明日なので、今日はただ単純に塗色すればいいだけだ。頭をからっぽにしていても、考え事をしながらでもできる。丁寧さや、塗りムラなど最初から気にもしていなかった。

クラスメイトが部活へと向かってから15分。

廊下に活発な足音が響いた。忘れ物でも回収にきた誰かが走っているのだろう。雨の日は、廊下で走り込みする部活動もある。今日は雨ではないけれど、その類いの例外かもしれない。

『廊下は走るな』と口が酸っぱくなるほど言っていている教師が、廊下での走り込みを指導しているのだから頭が悪い。

イオナは足音にもまた無干渉でいた。
それがこのクラスの誰かのものであっても、そうでなくとも。どちらにしても、自分には関係ないだろう。その時まではそう思っていたからだ。

「まだやってたのか?」

足音が止んだ途端、教室内に柔軟な声が反響する。その声はわりと大きかったにも関わらず、不思議なほどに不愉快でなく、沈んだ静寂を活性化させた。イオナが顔をあげると、額に汗を滲ませたエースくんが笑っていた。

「一人なのか?」

「はい。」

「真壁は?」

真壁とは一瞬誰だろうと思う。その一拍後に、もう一人の塗装担当が真壁くんだったのだと気がついた。

「部活です。」

「今、真壁って誰だっけ?とか思ったろ。」

「え?」

図星な指摘におもわずポカンとしてしまう。エースくんはお構いなしだ。

「手伝ってやるよ。」

「でも…」

「部活なんてなんとでもなる。」

彼はズカズカと教室に踏み込んできた。足元はスニーカーじゃない。部活用の、なんとも頑丈そうなシューズを履いている。汚れるよ?と声をかけてみるけれど、彼は「平気だろ。」と白い歯をみせた。

エースくんはズルい。

こんな顔をされたらそれ以上の指摘ができないじゃないか。イオナが惚けているうちに、彼は真壁くんの置いていったローラーを手に取りしゃがみこんだ。

屈託のない笑顔というより、どこかはにかんだ風に見える控えめな笑顔。同世代の男子より、少しだけ大人っぽく、謙虚にもみえる。何より、押し付けがましくない。

うっかり見惚れてしまっていた。自分は今、いったいなにを思おうとしてしまっていたのだろう。我に返ったイオナは、慌てて視線を伏せる。

それからは終始無言だった。

けれど不思議と嫌な空気は感じない。
なんとも言えない緊張感がずいぶん心地いいもののように思えた。

ずっとこのままでいいかもしれない。

そう思ってしまっていたなんて秘密だ。真剣な横顔をチラチラうかがってしまっていたなんて、絶対に自覚してはいけない。

二人でする作業はあっという間だった。
予想外にエースくんが不器用だったので、真壁少年と塗っていたときより要領が悪くなっていたにも関わらず、である。

「俺が手伝ったって秘密な。」

エースくんはローラーをペンキの入った皿の上に戻した後、グッと伸びをした。横腹がチラリと覗く。無防備な仕草がいちいちいじらしい。

惚けた顔のイオナをみて、彼はなにを勘違いしたのかハニカミ笑顔で続ける。

「その方がワクワクするだろ?」と。

いったいなにを言っているのだろう。ワクワクの意味はわからない。けれど『二人の秘密』というのは、妙に魅力的な響きのように聞こえた。

「じゃ、また明日。」

「うん。」

軽く手をあげたエースくんに向かって、イオナは小さく手を振る。心臓が大きく脈を打つ。不思議と胸が熱かった。

なんなんだろう。この感覚は…

産まれて初めての感覚に、イオナはしばらく腰を抜かしていた。



つづく。

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