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淡恋@

急な温度差に耐えられず、鼻の奥がむず痒く感じるこの季節。

イオナはいつも通り俯きぎみに教室に足を踏み入れる。かまめかしい女子の群れは小さくお辞儀するだけで通りすぎ、同様にあちらからの反応もない。

それでいい。それでよかった。

いつもと異なるのは、文庫本を手にしていること。少しだけ気持ちが弾んでいること。

図書室に予約していた新刊が届いたのは昨日のことで、朝イチで取りに伺うと担当の教師に頼んでいたのだ。

毎月、漫画や小説の新刊はたくさんでる。当然、おこずかいで全てを買えるはずもなく、ついつい漫画を優先させて購入してしまうために文庫については学校の図書室が頼りだった。

早く読みたい。HRが始まるまでに全てを読み終えれる訳がないけれど、せめて挿し絵だけでも確認したい。

挿し絵を先にみてしまい、後悔することが多々ある。それでも一番に全挿し絵を確認してしまうのはそれが癖のようなものだから。

イオナがこの高校を選んだ理由は、図書室がずいぶんと大きかったからだ。どれだけ読書に励んでも、読みきるできないほどの小説の群れは魅力的以外のなにものでもなかった。

とにかく蔵書数がはんぱなく、古くからあるハードカバーは綺麗に補正されていて、ここのところの流行りのネット小説を文庫化したものまで置いてある。

図書委員になって担当の教師と仲良くなってからは、積極的に自分の好きな分野の本を購入してもらえるように掛け合った。

最初は「経費のうちで回さないといけないのよ。」と渋い顔ばかりしていた教師も、ここのところ利用数が激減していた図書室に人気名高いライトノベルが入るごとで利用数を増やせることを悟ったらしい。積極的に購入してくれるようになった。

在学中はたくさん読書しよう。
読書に生きよう。

特に自分の人生に光を見いだせず、さりとて、ここのところ流行の『死にたい病』に感染することもなく、行き詰まっていた私を支えてくれたのは文庫だ。漫画だ。薄い本だ。

感謝してもしきれないこの感情は、名作の魅力を同期生や後輩たちに伝えることで解消したい。また、自分と同じように人生に行き詰まった人間に読書を楽しんでもらいたい。何かを見出だしてほしいとも考えている。

そのためには学校にたくさんの文庫本を購入してもらはなくてはならなかった。

イオナは自分の席のある、後列の窓際を目指す。けれど、その途中。男子の群れのなかにいた一人に「よう。」と声をかけられ、狼狽した。

「あぁっ…、う、うん。おはよ… 」

「なんだよ、俺の顔になんかついてるか?」

「いや、そうじゃないっ。」

話しかけてきたのは『イケメンのクセに男女ともに好感度が高すぎる系男子』とイオナが勝手に名付けているクラスメイト、エースくんだ。

そのかっこいいルックスを鼻にかけることもなく、誰よりも人に優しい。ナチュラルに親切で、ときどきツンデレかと思わせるような振る舞いをするところがまたいじらしい。

彼から挨拶をされるのはこのクラスに進級してから毎日のことながら、イケメンどころか男子との会話に乏しい私はそれに一向に慣れない。

顔をあげたままフリーズしてしまっていると、イケメンが念を押すように小首を傾げる。

その破壊力は半端なく、目をそらすことができない。せいぜいできるのは若干どもりつつ、「な、なにも。ないんだけど…」と呟くくらいだ。

身長差は約30センチ。着崩した制服はこなれた感があり、決してヤンキー的ではない。1つ下の学年にいる、緑髪頭とか、金髪頭の生徒はエースくんを見習うべきだと切実に思う。

「ここ、跳ねてるぞ。」

「へ?」

「髪、ここだけ浮いてる。」

それでなくてもかっこいいんだから、不意打ちはやめてほしい。ナチュラルなイケメンがナチュラルに手を伸ばしてきた。自分の頭頂部辺りを見つめるイケメンを見上げながら、頭頂部に触れられる気配を感じ、おもわず後退りしてしまう。

親切に寝癖を指摘してくれた相手にずいぶんと失礼な態度だったかもしれない。けれど、反射的だったものの、エースくんに触れられると彼のオーラによって、そこから溶けてしまう。つまり、禿げてしまいそうな気がしたのだ。

「あ、悪ぃ。」

エースくんが何故かバツの悪そうな顔をする。クラス別の野球大会でエラーしてしまった生徒がするような、なんとも言えない表情だった。

「ごめんなさい。」

緊張で全身から吹き出しそうになる汗。エースくんとのやり取りを冷やかすような生徒はいない。それは決して、イオナが目立ちたがらない性格だからというのではなく、彼がそういったことをされるのを嫌がるからだ。

人望があるというのは得だと思う。
けれど、それ以上に煩わしいこともあるようなので、ほしいとは思わない。

イオナはイケメンに向かってペコリと頭を下げ、相手の反応を伺わないようにしつつ席に向かう。なにか言いたげな顔をされたような気がしたけれど、これ以上会話したら高血圧で倒れてしまいかねない。

自分の席についたころに急に顔が熱くなる。会話中の様子できっとコミュ障であることはバレているだろう。というより、彼のことだ。ずっと前から気がついているはずだ。

それでも話しかけてくるのは何故だろう。

考え混んでいるうちに、前の席に座っていた女子生徒が身体をねじってこちらに顔を向けていた。「今なに話してたの?」と好奇心に満ちた瞳で聞いてくるが勘弁してほしい。

「別に。おはようって。」

「それ以外は?」

「なんにも、ないけど?」

質問攻めはうっとおしい。逆に質問してやると、つまんないと呟かれてしまった。うるせぇよ、バカ女。と言い返したいけれど、そんな勇気は無論ない。

前に向き直った女子生徒の後頭部から、エースくんの方へと視線を移す。

クラスメイトと雑談を交わすその横顔は、やけにやんちゃそうで、愛らしい。鼻の頭に絆創膏を貼ったら似合いそうな、活発な表情だ。

だからなのだと思う。
ついつい見惚れてしまっていた。

HRの開始を告げるチャイムによって意識が現実に引き戻される。例の文庫本は机の上で握りしめたまま。結局、一ページ分も挿し絵を愛でることができなかった。

なんだかなあ…

各々の席に戻る生徒たち。その中にはもちろんエースくんの姿もある。おもわず目で追ってしまっていた自分に気がつきかぶりを振る。

「それでは、朝のホームルームを…」

気がつけば担任が教卓に立っていた。けれど、そんなことはどうでもいい。

なによりその存在感の薄さは、このクラスが始まった時点で確認している。

イオナの視線は、やはり教室の反対側。廊下側の前から3列目に座るエースへと無意識に注がれていた。

つづく

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