鼓動と泣き顔トクントクンと鼓動を感じる。
深い呼吸の音と頭に添えられた大きな手のひら。
頬に触れるシャツの肌触り…
今この瞬間に感じられる息遣いと体温。隣にある温もりに満ちた存在感と、目覚め前のまどろみからうまれる充足感。その全てが過去の記憶と現在を結びつける。
「エース…。」
置いていかれて寂しかった。孤独で怖かった。毎日が不安で、辛くて、苦しくて、足掻けば足掻くほど先が見えなくて。
でも戻ってきてくれた。
ここにある。ここにいるから。
もう平気だ。エースが居てくれるなら。
この温もりが続くのならば──
(違う。)
(いるはずがない。)
(エースがここに居るはず…)
まどろみからの覚醒。それは無情にもイオナから安堵と夢を奪い去り、その代わりに混乱へと導いた。
(じゃあ、誰なの!?)
自分は誰とここで寝ていたのか。
身体に事後の倦怠感はないために、そういったことがなかったのは確実だ。でも、下着姿にされていることは確かで、身じろぎするとシルクのシーツと素肌が触れ合う。
なんで…
これまでのイオナなら、目覚めが下着姿だったところでどうとも思わなかった。けれど、今は違う。
キッドにされたことが頭を過り、身体が強張った。
この恐怖心は彼に対するものなのか、それとも、されたことに対するものなのか。そのどちらとも言い切れない。けれど、そのどちらだったとしてもプラスに働く感情でないのは確かだ。
乱暴で強引な口づけ。無理強いの挙げ句に、組み敷かれる圧倒的な力関係。主導権を委ねなくてはならない屈辱と、心を抉られる痛み。
それに上乗せされるのは、どういう理由かエースの屈託のない笑顔。
嫉妬やワガママまでも包み込んでくれる優しさも、交わした以上に注がれた温かさも…。どんなに頭で忘れようとしても、心と身体はその感覚を手放そうとはしなかった。
これまでは誤魔化し、誤魔化しやってきたが、今は、エース以外の男を受け入れられる余裕がない。平然としていられるほど、冷静ではなく──
これではまるで、安易に身体を開けないように、あの男に楔をかけられたようなものだった。
イオナは恐怖心から顔をあげることができない。
ベッドの中で自分を抱き締め、頭を撫でているこの人が誰なのか、確認する勇気がなかった。
ギュッと瞼を閉じ、身を強張らせる。
すると、頭に触れていた手が引っ込み、密着していた身体が離れ、ベッドのスプリングの沈む位置が変わった。
「起きたんならァ、起きたってェ言えよ 。」
寝起きなのだろうか。投げやりな物言いと、わずかに掠れた声にイオナは顔をあげる。
「キッド…」
「嫌そな顔すんな。俺だって望んでこうしてた訳じゃねェ。」
「ならなんで!」
そこまで言って気がつく。自分が彼のシャツの裾を握ったままでいることに。
「あ…。」
「行くなっつったのはァ、てめェだかんな!」
「…………。」
シャツに、シワができるほどギュッと握りしめていた。その事実に頬を赤くしながらも、あえてイオナはムッとした表情をつくる。
「顔が赤ェぞ。酒が残ってんじゃねェのか。」
「別に…」
「フォローしてやったんだァ。感謝しろよ。」
「そんなこと頼んで、ない…。」
気だるげな物言いに翻弄されることは腹立たしかったが、相手がキッドであったことに安堵しているのもたしかだった。ついつい言葉尻が弱くなってしまう。
「可愛いげのねェヤツだな。」
「可愛いげなんて必要ないから。」
決して、キッドであったことが嬉しいわけじゃない。けれど、見知らぬ誰かよりはずっとマシな相手であることは確かで、なにより──
「どうして脱がしたの…」
イオナが目覚めたとわかった途端に、身体を離してくれたそのさりげない優しさが嬉しかった。
「どうしてって、なんも覚えてねェのかよ。」
「……。」
「──酒ァ、ほどほどにしとけよ。」
怪訝な顔をしていたキッドだったが、イオナが昨夜の記憶を全く持ち合わせていないと勘づくやいなや、呆れたようにポツリと呟いた。
「昨日はちょっと腹が立ってたから…」
「なんでだ?」
「それは!」
あんたが無責任に人の心混ぜっ返すから。そう言ってやろうと思ったイオナだったが、その口をつぐむ。
勢いよく身体を起こした拍子に視界に入った、よく磨かれたシルバーの水差し。鏡のように綺麗な表面のそれに映った自分の顔が、特に瞼がずいぶんと腫れぼったかった。
「私…、泣いてた?」
「さァな。」
「そっか…」
鮮明なエースの幻想。
別な男の体温でそれを感じ、実際のものとして受け入れようとし、心を満たそうとしていた自分の浅はかさ。
泣きながら寝ていたのか、酒に呑まれた勢いで泣きじゃくってしまったのか。そのどちらなのかはわからないが、ずいぶんと長い間泣いていたというのは、顔の浮腫みから理解できる。
強がっても、拒絶しても、心は優しさを求めてしまう。誰かとの関わりを必要としてしまう。
まだこの男とあって一日も経たないが、素の弱さを無意識にさらけ出してしまっているという事実に、どんどん情けなくなってきた。
「泣けよ…」
「は?」
「泣きてェときに我慢すっから、忘れられなくなるんだろーが。」
「………ッ!」
ベッドについていた腕を引かれ、強引に抱き寄せられる。分厚い胸板から響く鼓動に額を重ねると、なんとなく抵抗できなくなった。
「何が楽しくて、寝てるときまで苦しまなきゃなんねェんだよ。泣きゃいいだろ、ガキみてェによ。」
「─そんなの……」
「今だけ特別、見てねェことにしてやる。どうしても、泣かねぇってんなら、これ外すぞ。」
キッドの指がブラのホックに触れる。その強引で押し付けがましい優しさが、何故か妙に心地いい。
「ばっかじゃない…」
「言ってろ、クソ女。」
込み上げてくるこの感情はなんなのか。
気がつけばボロボロと涙が溢れていた。顔がぐちゃぐちゃになるのも、鼻水も全く気にならない。分厚い熱に身を預け、イオナはわんわんと声をあげて泣き続けた。
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