正々堂々作業現場の一画。
幾多もの資材が積まれたその隅で、身を小さくするイオナ。三角座りをした膝に額を預ける彼女の肩は、小刻みに震えている。その様子は、肉食獣に怯える小動物というより、親に叱られた子供が家の隅で泣いている時のそれとよく似ていた。
「俺が大袈裟にしたのが悪かった。」
突然の謝罪に驚いたイオナは、ガバッと顔をあげる。その目は、泣き腫らしたせいかいくらか重たげだが、それでも真ん丸く見開かれている。
「俺があの場でちゃんとしてれば、あんなもん見せなくてすんだのにな。」
柔らかな口調で語りかけるゾロ。彼は相変わらず眉間にシワを寄せているが、そこに苛立ちは感じられない。どちらかと言えば、『困惑』とか『躊躇い』とか、そんな言葉の似合う表情だ。
「いえ、そんな…。」
イオナは首を左右に振る。あの場でソロが止めてくれなければ、きっと胸を揉まれていただろう。それで人死にが出るのは嫌だが、それでも初対面の異性に胸を揉ませられるほどオープンな身体ではない。
結果的にセクハラ作業員は死ななくて済んだのだから、謝られる理由はないのだけど──
困惑するイオナから50センチほど離れた位置に腰を下ろしたゾロは、少しだけ自嘲気味に笑った後ポツリとこぼした。
「俺もちょっと浮かれてたのかもしれねぇな。」と。
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少し前。
エースが仲裁に入った途端に、その騒動は収拾がついた。当然のことながら、サボは納得していない様子だったが、エースが彼に有無を言わせる隙を与えなかったのだ。
セクハラ作業員はエースに連れていかれ、サボは「ほんとにエースは甘いよな。」と軽くボヤいて仕事に戻った。もちろん、さりげなくイオナの肩を叩き労るような仕草をみせることも忘れていない。
目の前で起こっていたことに対する恐怖と、ずっと浴び続けていた緊迫した空気。張り詰めていた緊張感から解放されたせいか、イオナはその場で腰を抜かしてしまう。
これまでの生活で感じたことのないほどのプレッシャーと殺気。それは足腰の感覚を奪うに充分だった。
エースから「後は任せたぞ。」と軽く声をかけられたウソップだけが、その場であたふたする。イオナが脱力してしゃがみこんでしまったのだから当然だろう。
「貧血か?」「腹でも減ったか?」と検討違いな問いかけを繰り返し、首を左右に振るイオナの青白い顔を覗き見て、彼までも顔色を悪くする。
結果的にイオナを作業現場の一画にある資材置き場に案内したのだが──。
ウソップは女の子の扱いに、もしくは危機管理に慣れていなかったのだろう。
この場が危険であることを思い知ったばかりであるイオナを、無防備にも資材の上に座らせたまま、立ち去ってしまう。
完全に無責任にも思える彼の行為。
けれどイオナとしては、いいきっかけになった。沸き立つ感情をコントロールできない状況で、誰かに付き添われたところで迷惑をかけるだけだ。自分の幼稚さを思い知るだけだ。
イオナは無言で膝を抱える。
頭の中では今しがた起こった出来事がグルグルしていて、その瞬間瞬間に覚えた感覚が否応なしに押し寄せてきた。
「もうやだよ…」
自分を助けてくれた人や、親切にしてくれている人たちに失礼だとわかっていても、その言葉が紛れもない本音であることに違いはない。
イオナは下唇を強く噛む。当然ながらそれで嗚咽を堪えることはできず、ずっと我慢していた涙をぼろぼろとこぼしはじめた。
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「俺もちょっと浮かれてたのかもしれねぇな。」
その台詞の意味するところ。それをロマンチックに解釈できるほど、イオナは自惚れてはいない。泣き腫らした目のまま、 不思議そうにゾロを見据える。
「ここに来んのは、可愛いげのねぇ野郎ばっかだし、マンネリっつーか。どうしたって男同士だとあれこれしてやれねぇだろ。」
「うーん…」
「女なら無条件で世話してやれるし、面倒みられる。無意識にそう思ったんだろうよ。」
年頃の女の子にジッと見つめられ、決まりが悪くすなったのだろう。ガシガシと頭を掻いたゾロは、イオナから横顔すら見えぬように顔を背ける。
彼としてはずいぶんと格好の悪い自惚れ話をしたつもりだったのだけど、受け取り手はそう感じていなかったらしい。
「そういうものなんでしょうか…」
きちんと義務教育は受けてきたが、基本的に『男女平等』だったとイオナは考える。女子だから○○が免除されるとか、男だから○○しなくてはならないとか、そういった指導は一切なかった。
例えば、給食当番で重くて熱い大きなおかずを女子がやることもあるし、男子が軽くて冷たい小さなおかずをすることもある。体育祭のテント張りを女子がやり、運動場の石ころ拾いは男子がやる。
それが重労働だろうが、丁寧さが求められる作業だろうが、平等にくじ引きで決めたことをやる。それが学校教育における一種のルールだった。
そんな、"向き不向きよりも平等に拘った教育"をされてきたイオナにとって、『女性は守るべき対象』というニュアンスの発言には首を傾げてしまう。
「例え霊長類最強って言われてる女が居たとしても、だ。」
不思議がるイオナに対して、ゾロは少しだけ困ったような口調で話し始めた。
「仮にゴリラよりその女が強かったとしても、ソイツが女である以上、男はその女とゴリラの間に立たなきゃならねぇと俺は思ってる。」
「ゴリラ…」
なんてシュールな例えなのだろう。なんとなく絵に浮かぶ構図に、それが真面目な話であることを忘れて笑いそうになるイオナ。けれど、ゾロは言葉を続ける。
「男と女の違いは身体の構造だけじゃない。脳みそから違うんだよ。それなのに平等なんて無理だろ。無駄にプライドの高い男より、女の方が面倒見やすいに決まってる…」
「プライドが高い…」
「女に世話焼かれて嬉しがる男は多いが、初対面の男にあれこれされるのをよく思う男は居ないと思うぜ。」
「どうしてですか?」
「見くびられてるよーな気がするから。」
きっと経験談なのだろう。彼はやはり自嘲気味に笑って答える。気がつけば、ゾロの横顔が戻ってきていた。目付きは悪いが、鼻筋はしっかり通っているし、よく見れば男前だ。
イオナは「そういうものなんですね。」と呟き、自身の足下に視線を落とす。
「馴れ合いたがる男はここには居ねぇし、エースさんみたいなタイプじゃねぇとなかなかな…」
ぶっきらぼうなタイプのゾロと、粗悪な環境で育ってきた少年たちは基本、気が合わないということなのだろう。なんとなくゾロの言いたいことは理解できた。
同時に、ゾロの目からみて自分は素直に聞き入れるであろうタイプにみえ、また危なっかしい存在として認識されていたことを知る。
そしてそれは図星だった。だからこそ、イオナはすんなりとゾロの言葉を受け入れる。
「あの…、ひとつ聞いてもいいですか?」
「ん?」
「ゾロさんは女の子に世話を焼かれたいんですか?」
「は?」
「だって、さっき自分で…」
イオナからの言及にゾロはしまったといった顔をする。そして、その日焼けした頬を一気に赤くした。
「別に。俺は、そんな…」
予想以上に初(うぶ)だった。揚げ足を取るようなことを言ってしまったことを、少しだけ申し訳なく思ったイオナは視線を伏せて押し黙る。
「まあ、なんだ…。その、とにかく。イオナがゴリラと対峙することになったら、俺がなんとかしてやるよ。」
すでに論点が変わってしまった。けれど、これはこれで面白い話だ。イオナはまた吹き出しそうになった。
「だから、もう気負うな。なんでもいいから、正々堂々としてればいい。とにかく、もう泣くな。」
真面目な話なのか。はたまた冗談なのか… 。なにがとにかくなのかもわからないが、そんなことはどうでもいい。
励ましてくれたんだ。そう気がついた時点で、イオナの涙はすでに乾いてしまっていた。
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