二者択一自動販売機の前で立ち止まったゾロは、手に持っていた千円札を投入口に押し込む。シワがあったせいか何度か戻ってきたが、彼がそれを気恥ずかしく思っている様子はなかった。
「ずいぶんと育ちが良さそうだな。」
「いえ、そんな…」
「飲み物なんて適当に買えばいいんだよ。飲める物があるだけありがてぇんだから。あれがいい。これがいい。ってのは甘えだ。」
真面目な顔で彼は言うが、そうなるとサボは甘えていることになるのだろうか。イオナが横から指を出し、無糖珈琲のボタンを押すと、ゾロは小さく舌打ちした。
「俺の金だぞ。」
「こ、これは私のじゃなくて、おに、サボさんのですから!わ、私はなんでも飲めますし…」
そんなに怖い顔をしなくても。イオナは言い訳をしながら後ずさる。思わずサボのことをお兄ちゃんと言いかけたのは、この緊張感のせいだろう。
ゾロは身を屈めると、取り出し口からスチール缶を取り出した。そして、それをイオナに投げ渡す。
「あぁは言ってたが、あの人は無糖は飲まねぇんだよ。カフェオレだ。覚えとけ。」
「じゃあなんで…」
「お前をからかってんだろ。たぶんそれ渡したら言われるぞ。「おい、イオナ。買ってくるもの間違ったな。そうだお詫びにキスでもしてくれよ。」ってな。」
口調を真似ることもなく、表情ひとつ変えることなく、とんでもないことをゾロは言った。イオナは目を真ん丸くするが、彼はそれにすら気がつかないのかどんどん飲み物を買い進めていく。
「エースさんやサボさんに目ぇかけられてるから大丈夫だとは思うが、くれぐれもここの奴らと馴れ合うな。甘い言葉にほだされて、安易についてったら"終わり"だぞ。」
「終わり?」
「今、大袈裟だと思っただろ?」
彼の視線は鋭く光る。イオナは頷きこそしないが、あからさまに狼狽えてしまう。
「ここの奴らが"まとも"だと思うなよ。その服ひっぺがされて、傷物にされないとわかんねぇほどその頭は空っぽじゃねぇだろ。」
冷たい口調。身内の悪口とも思える内容だったが、そこに嘘はないように思える。イオナがコクりと頷いてみせると、彼は口角を少しだけ持ち上げた。
「どうせエースさんからはなんの警告もうけてねぇんだろ。ここの奴らはヤンチャだからとか、恋愛は禁止だとか…。」
「生娘じゃなくなると身請け出来なくなるって、だから恋愛はするなって言われました…」
「へぇ。」
二枚目の千円札が自販機に投入される。ニッカポッカのポケットに入らなくなった缶は、イオナの手に渡された。
「あの人は仲間の悪口は言えねぇ人だから。みんな根は良い奴だってスタンスを崩さない。悪気なくな。身請けなんて話も嘘だ。ここはそんな非情なことはしてねぇから安心しろ。」
イオナの身体の前でクロスした腕の中に、次々に冷たい缶が乗せられていく。重みは大したことないが、そのひんやりとした感触に身体が震える。しかし、ゾロがそれを気にかける様子はない。
「にしても、相変わらず嘘がヘタなんだな。仲間を悪く言うくらいなら脅しかけときゃいいと思ったんだろ。」
彼は思ったより饒舌だ。その声色や表情から、冷たさこそ消えないが最初に感じたいたたまれなさはもうここにない。もしかしたらこの人はこういう話し方しか出来ない人なのかもしれない。
イオナは真っ直ぐにその無骨な表情を見据える。
「だからって大事なことを隠しすぎだよな。オブラートどころか、餃子の皮に包んでどーすんだって話だ。」
彼はちょっとだけ気の抜けた調子で言った。ここは笑うところなのだろうか。もしかしたら渾身のギャグだったのかもしれないと不安になるが、ゾロの方が真顔のためどうしていいのかわからない。
どうしたものかとぎこちなく視線を泳がせていると、「笑えよ。」とゾロ。その表情はそれまでより幾分か柔らかくも思える。
「ごめんなさい。」
「謝るなよ。俺が滑ったみたいだろ。」
「でも、滑ってるから…」
取り繕うつもりで放った言葉が、逆に彼を落とす発言になってしまった。イオナは慌てるが、それをみてゾロは眉尻を下げ、小さく笑う。
「案外ズケズケものを言うんだな。」
「いや、そんなつもりはなくて…」
「あぁー、言いたいことはわかった。そろそろ戻るぞ。」
優しいのだろうか。早足プラス大股歩きで、皆の元に戻る彼の背中を追いかけながら、イオナは考えていた。
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ゾロに遅れてみなのもとに戻ったイオナ。胸の前で両腕に抱えれるだけの缶を抱えて歩くとなると、どうしても足取りが慎重になってしまう。
先に着いていたゾロの「なにダラダラしてんだよ。」という言葉にムッとしたが、いちいち嫌な顔をして見せるようなことはしなかった。
「ごめんなさい。」
群がってきた作業員たちに缶を引き取ってもらいながら、イオナは謝罪する。二人のやり取りは彼らには興味のないことらしい。
ゾロもまた同じだった。彼は「謝れとは言ってない。」と呟くと、ポケットから取り出した缶珈琲のタブを持ち上げ口に運ぶ。その動作に視線を奪われてしまったのは一瞬で、イオナは慌てて自分の手元へと視線を落とす。
男臭い集団の手が胸元に次々に伸びる。
彼らは本当に飲めればなんでもいいらしい。
まるでそれが決められたルールかのように、指先に触れたものを手に取っている。
唯一こだわりのあるらしかったサボだけは、すでにゾロから受け取ったらしいカフェオレを指先で弄んでいた。「なんでバラすんだよ。」とぼやいているが、それすらもしかめっ面をするゾロをみて楽しんでいるだけのように思えた。
楽しい職場になるかもしれない。イオナはなんとなくそんなことを考えながら、残り2本となったジュースを両の手に持ち直す。
そこで一人の手がおかしな動きを見せた。
作業員の手が、彼女の持つ缶ではなく、その控えめな胸元に向かって伸びたのだ。突然のことに、後ずさるでもなく、声をあげるでもなく身を堅くするだけのイオナ。
他の作業員たちはもうすでに彼女への関心はなく、その動作に気がつく者もいない。
黒い作業用油に汚れた指先が、触れるか触れないかの位置まで迫る。怖くて相手の顔をみることすらも出来ない。視線を伏せたまま、全身を強ばらせる自分を情けなく思いながらも、イオナは強く下唇を噛んだ。
─刹那。
その指先がイオナの身体から離れた。どころじゃない。その人自体が彼女から離れた。
ハッとして顔をあげたイオナが見たのは、胸ぐらを捕まれ宙に浮く一人の作業員と、その人を片腕で持ち上げるゾロの横顔。
「ちょっとした冗談っすよ…」
苦し紛れに宙に浮いたまま言う作業員。彼はイオナに向かって「な?」と同意を求める。しかし、その態度が更にゾロの神経を逆撫でした。
「お前は冗談で女をビビらせんのか?」
「いや、それは…」
首がしまっているのだろう。セクハラ作業員の顔がどんどん顔が赤くなる。それでもゾロは腕の力を緩める気はないらしい。
飲み物を飲みつつ雑談をしていた他の作業員たちも、殺伐とした雰囲気によって雑談をやめ、その中心にいるイオナはおろおろする。
そこで止めに入ったのは鼻の長い青年だった。
「おいゾロ。やめろって。イオナちゃんが怖がってるだろ。」
気の弱そうな、どこか躊躇いの混じる口調。さらに火に油を注ぐことになるのではとイオナは顔を青くするが、ゾロは彼の声に無言で従った。
掴まれていた胸ぐらを荒っぽく離されたセクハラ作業員は、ドサリと尻餅をつき、同時に噎せこむ。
小さく舌打ちをしてゾロはその場を離れたが、イオナは立ち尽くしたまま。状況が状況だっただけに、どうしていいのかわからない。
仲裁に入った青年が、セクハラ作業員に手を差し出す。それを彼は拒むと、気だるげに立ち上がり、トゲのある視線をイオナへと向けた。
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