一寸先は闇?ろくでもない組織に売られそうになった私は、親切な人たちによって救い出された。その人たちはもちろんカタギではなく、いわゆる"あっちの人"なのだと思う。
でもそれでいい。
家族に裏切られ、捨てられた私には行く宛などないのだから、置いてもらえるのであればどこでもいい。それが貧困に悩む場所でないなら、感謝しなくてはならないはずだ。
なにより、助け出してくれたマルコさんも、世話役をしてくれるらしいエースさんも、とても親切な人だから。
きっと私は彼らと出会えただけで"幸せもの"だ。
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動きやすい格好に着替えたイオナは、髪を後ろで一つに束ねた。エースに与えられた日焼け止めをこれでもかと肌の露出する部分に塗りたくり、すっぴんのまま部屋を出た。
化粧をするべきかとも考えたが、結局は無色のグロスを塗っただけ。まだ学生のイオナからすれば『化粧=遊び』という印象が強かったらしく、それ以上をすることは躊躇われたのだ。
イオナが部屋を出た時、すでにエースは廊下にいた。彼は昨日とは色の異なる作業着を身に付けている。
「おう。その服、似合ってるな。」
「─あ、いえ…。」
少年のような屈託のない笑顔で、大人の気配りをしてみせるエース。彼からすれば自然な立ち振舞いなのだろうが、男を知らない小娘には刺激的だ。イオナは赤面して俯いてしまう。
途端にエースは吹き出した。
「なんだよ。俺だってこれくらいの世辞は言えるぞ?さては見くびってたな。」
「いや、そんなつもりは…」
「いちいち可愛いリアクションを取るな?」
「はい?」
「これから向かうは、男社会。狼の巣窟だ。」
「ええっと…」
「惚れた腫れたは止してくれよ。まあ、今のところは…って話だけどな。」
赤面から一転。イオナは困惑した顔で小首を傾げる。相手は軽い口調で言っているしどこをどうみても笑顔だ。それなのに、その内容はどうしても冗談に聞こえない。
戸惑うイオナをみて、エースは少しだけ表情を改めた。少しだけ真面目な顔で彼は続ける。
「イオナ。お前は"今の身体のままなら"金になる。もしお袋さんが見つからなかった場合は、決まった相手に身請けしてもらわなきゃなんねぇ。」
「身請け?なんのためですか?」
「そりゃ、依頼賃の完済のためだ。」
まるで簡単な数式の答えを言うような口調で答えるエースに対して、イオナは絶句する。
確かに依頼を契約する際、なんだかうまい話だなとは思った。(母の身柄のことはともかく)自分に一切のリスクがないことを不思議に思った。
その時点で違和感を指摘すべきだったのだ。
『今の身体のままなら金になる。』
それはつまりは処女のままでいろ。ということ。
場合によっては売られてしまう。ということ。
イオナは考える。
なにを以て、母の捜索は打ち切られるのだろうかと。自分が自由になれる日は本当に来るのだろうかと。
それより、本当に母の捜索をしているのだろうか。まさか最初から、処女好きの変態オヤジに売り飛ばすための引き取ったんじゃないのか。
疑問が疑問を呼び、不安を煽る。
イオナの周りでは、18で未経験は遅い方だった。姉も高校を上がった段階でとっとと処女を"捨てていた"。
未経験だとバレるのが恥ずかしいとかで、友人たちがどんどん処女を卒業していく中で、イオナは一人取り残されていた。
男の人が苦手というわけでも、女性が好きだということでもない。ただ、純粋にそうなるきっかけがなかっただけ。
彼氏が居たこともあったが、長くは続かなかった。メールの最中、文面に紛れこむ欲望のようなものを感じた途端に、気持ちが冷めてしまったからだ。
それがこんなところで仇となるとは。
別に初めてが好きな人じゃなくてもいい。せめて相手くらいは選びたかった。顔の好みくらいは…
考えるほどに泣きそうな顔になる。エースは血色の悪くなったイオナの顔をみて、慌てふためいた。
「いや、悪かった。そんな怖がることねぇから。だって、ほら。落ち着いて、普通に考えてみろ?国内にいるお袋さんを、うちの下請けが捕り逃す訳がないだろう?」
まるで小さな子供に言い聞かせるように、柔らかな口調。イオナはその言葉を信じるかどうかひどく迷う。
「俺はただ…、その。ここのヤツらも、現場のヤツらも女に飢えてるからな?その紅一点って状況で、盛り上がられちまうと…。だから、警告の意味を込めて言っただけで─」
支離滅裂。完全に言い訳みたいになっているが、そのぎこちなさが彼の本心であることを証明している気がする。思いきって、イオナは訊ねる。
「最初から変態に売り飛ばすつもりじゃ…」と。
「んな訳がねぇだろ?つか、変態って。」
落ち着いた調子でとんでもない誤解を訂正した後、軽く吹き出すエース。それが、イオナとエースの間にあった薄い隔たりをぶち抜くきっかけになった。
「いや、だって変態ですよ?今時、その、き、生娘に拘るとか、付加価値つけるとか、そんなの…だって、気持ち悪いっていうか…」
「そういうもんなのか?」
「え?」
「女ってのは、たくさんの男と寝たいもんなのか?」
「そ、それは─」
エースは驚いている様子だった。どうにも、生娘で嫁ぐことが幸せであるという、昭和的思考を信じているようだ。一生一人の男にしか抱かれない。それが女の幸せであると、誰かに教えられたのだろうか。
イオナは問いかけに対して、ちょうどいい答えを持ち合わせていなかった。なにせ、生肌で交わる熱量がどのようなものなのかを知らないどころか、人肌を恋しく思ったことすらないのだから。
「─知りません。」
「ん?」
「経験したことがないから、わかりません。」
なんだか気恥ずかしかった。相手が年上とはいえ、年頃の異性と恋愛において、もっとも生々しい部分のことを話しているのだから。
イオナは顔を伏せる。頬が熱いのは、本日2度目の赤面のせいだろう。といっても、1度目から5分と経っていないのだから、ずいぶんと短い時間で顔色を変えていることになる。
そんな彼女の態度から、自分がいけない質問をしてしまったと気がついたのだろう。
エースは「まあ、そうだよな。」と照れ臭そうに目を伏せ、鼻の頭を人差し指の背で軽く擦ってみせた。
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現場に向かうには、エースの運転する車の助手席に座るしかなかった。父親の運転する車の助手席にしか座ったことのなかったイオナにとって、それはドキドキすることでもあったし、懐かしい過去を思い出すきっかけにもなった。
「父がよく学校まで送ってくれて…」
「んあ?」
「小学生の頃も、中学のときも、高校に上がってからも。別に遅刻しそうでもないのに、車を出してくれて──」
イオナの目は涙でいっぱいだ。それなのに、口元はうっすらと笑みを浮かべている。
「小さな頃はよく、姉と喧嘩になってました。どっちが助手席に座るかって揉めるんです。父はいつも、パパはモテモテで困るな。って笑ってた。大きくなるにつれて、二人とも助手席には乗らなくなった。後部座席に座って…」
ポロリ。頬を一滴の涙が伝う。
けれどそれ以上の水滴は溢れない。
「ごめんねって言いたかった。ありがとうって…。」
喉から声を絞り出すイオナに、エースは明るく声をかけた。
「そんなのとっくに聞こえてるだろ。」
「へ?」
「死んだ人間は上からみてんだよ。だから、俺たちは仕事をヘマしない。下請けだって完璧にやれる。上の奴らは絶対に俺たちを守ってくれてんだ。」
ハンドルを握るエースの手は、父の手とくらべてずいぶんと繊細そうだ。それでも節だった感じが、手の甲に這う血管が、全てが男らしい。
「だから俺は安心してる。イオナの親父さんは絶対にイオナを救ってくれるってな。」
きっと彼女を安心させるための言葉だったのだろう。まるで自分に言い聞かせるみたいにエースは言いきった。
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