お誘い「この後、麻雀やろうぜ。」
そう口にしたのは、午前中に資材を持ち込んでから、日の落ち始める今の今までずっと現場の隅に居座っていたキッドだった。
現場での仕事を始めて2週間。車の誘導作業にはずいぶんと慣れてきたイオナだったけれど、セクハラ作業員といい、あのレストランの店員といい、人間関係は未だにぎこちないままだ。
そして、もちろんこの人との関係も。
イオナは声のした方へと顔を向ける。
奇抜なカラーリングの髪に、じゃらじゃらしたアクセサリー。木材の上に座り込んだ男の物々しいオーラと、厳つい目付き。そのどれもに"初対面の日から"慣れない。
荒療治で見慣れようにも、ずっと視線を送るわけにもいかず、そうしていて目が合ったところで、共通の会話ができるとは思えなかった。
イオナにとってキッドという存在は、どれだけ考えても、極力避けたい対象だったのだが。
彼はそれを許さない。存在感をずっと殺していたところで、許してはくれなかった。自分に向けて放たれた"お誘いのセリフ"にビクリと身を震わせたイオナは、身を強ばらせたまま唇だけを慎重に動かしてみる。
「麻雀、ですか?」
「あぁ。お前もやるだろ。」
「いえ。」
「あん?」
「やったことありませんし、ルールだって…。」
「なんだ。てめぇ、カイジも読んでねぇのかよ。」
食い気味に放たれた彼の台詞は、あからさまに荒々しい。怯えた声で返答を繰り返したせいか、期待に応えられなかったせいか。それとも…
ギロリと睨まれたせいで、イオナは一歩後退ってしまう。思考は一瞬にして停止して、「カイジってなんだろう。」だなんて疑問も生まれない。
初対面の時。ミラー越しにキッドの顔を見たその瞬間、何故か顔見知りなような気がしたけれど、こんな突飛な装いの知り合いがいれば即座に思い出されたはずだ。
イオナはそう考え、キッドのことを自分の生存範囲からずっと切り離れされた、遠くの存在だと考えていた。
けれど、今はどうだろう。
確実に蛇に睨まれた小動物の気分で、獰猛な肉食獣と同居させられた鼠の立場だ。
視線をぎこちなく動かして、漠然と周囲に助けを求めるも、誰もが皆労働中だ。そんな余裕のある人物が周囲にいない。残念ながら、現場の足場の設営を手伝っているサボも忙しそうにしている。
終わった。
なんとなくそう確信したイオナだったのだが、その確信は簡単に覆された。
「麻雀ネタはカイジじゃない。アカギの方だ。」
唐突の低い声にイオナはヒャッと悲鳴をあげかける。驚くほどに近い距離。背後から聞こえたその声は今までに聞いたことのない声だった。
見知らぬ声に動揺したまま、気配のない存在の方へと振り返る。そして、ハッと息を飲んだ。
イオナが一歩下がれば接触してしまう距離、彼女の真後ろにいたのは、長身で神経質そうな顔をした黒髪の男性だった。服装はきっちりとアイロンのかかったスーツのスラックスにワイシャツ。その上から何故か黒のパーカーを羽織った彼の目付きは冷たく、真っ直ぐにキッドをとらえている。
「知らねぇのかトラファルガー。カイジにも麻雀編ってのがある。」
「黙れ。麻雀漫画と言えばアカギだ。」
「それは偏見ってヤツだろ。いっぺん死ねよ。」
「ユースタス屋、お前がな。」
カイジでも、アカギでもイオナからすればど ちらでも変わりのないもの。空気をバチバチさせながら言い争う必要などないと思っているからこそ、「死ねよ。」なんて単語が飛べば、動揺せざるを得ない。
「あ、あの!」
思わず口を挟んでしまう。トラファルガーと呼ばれた彼は、そこで初めてイオナの存在に気がついたような顔をした。同時にキッドはあからさまな舌打ちをした。
「し、死ねよ。は無しです。」
キッドの恐ろしさに震えながらも、イオナは声を絞り出す。
「そんな、些細な言い争いで、誰かが、死んでいい訳、ないじゃ…ない、ですか。」
泣きそうな声になった。双方の顔を交互にみると、「はぁ?」と呟いたキッドは呆れたような顔をしていて、「ん?」と声を漏らしたトラファルガーは怪訝な顔をしている。
「穏便にいきましょうよ…」
柄にもないことをやるときほど、よっぽど体力と精神力を消耗する。イオナは今にも地べたに座りこんでしまいそうだった。
そんな彼女を庇うように、トラファルガーがキッドに歩み寄る。そして、淡々と問いかける。
「おいキッド。お前はいつも年下の女にこんなことを言わせているのか。」と。
当然ながら、キッドは不満げな顔をして、「あぁあ?」と凄む。居たたまれない空気にイオナは助けを求めるけれど、誰もこの事態に気がついていない。
「可哀想だ。謝れ。」
「お前が謝れよ、トラファルガー。」
「俺がこの娘に何をした?」
「俺との仲を邪魔しただろうが!」
なんとも理不尽なキッドの発言。俺との仲をなんてどの口が言うのだろうか。イオナは半泣きのまま、立ちすくむ。
「もとより良好な仲ではなかったんだろう。」
「これから深めるんだよ。」
「どうやってだ?」
「だぁから、麻雀でもやろうつって誘ってやったんだろうが。」
「女に、麻雀?」
トラファルガーがクスクスと笑う。徐々に会話に勢いを無くしていたキッドは悔しげに表情を歪めた。
「俺も麻雀に付き合う。」
「は?」
「麻雀は四人で一卓だ。あと一人はエースかサボだ。それ以外はない。」
「おい、トラファルガー。お前が仕切るな。」
「お前に任せるとろくなことがないからな。ユースタス屋。」
トラファルガーさんはクスリと笑う。まるで慣れているような態度だけれど、キッドの苛立ちぶりはそれほど関係の深くないイオナにもわかるほどによっぽとだ。
苛立った様子のキッドから視線をそらすことが出来ず、ただ呆然とその場に立ち尽くす。そんな彼女をみて、トラファルガーはさらに口元を緩めた。
「イオナと言ったな。俺の名はトラファルガー・ロー。ローと呼んでくれてかまわない。」
「え?あ、はい。よろしくおねがいします…。」
唐突な自己紹介。洗練されたニヒルな笑みに、感覚を取り戻したイオナはバタバタと返事をし、大きく頭を下げる。
手を差し出された訳でも、こちらから手を差し出した訳でもない。それでも気がつけば、右の手のひらは彼の冷たい手のひらに包み込まれていた。
頭を下げたままギュッと握られた手のひら。
その冷たさのおかげでスッと頭が冴えてくる。
「ローさん、あの。」
「ローでいい。呼び捨ててくれてかまわない。」
「でも…」
初対面の異性。それだけでもずっと緊張するのに、手を握られたままだなんて赤面もの。顔をあげて視線を交えると、それは尚更だった。
「俺はアイツとは違ってまともだから安心しろ。」
「えっ…、あ。いえ…」
返事に困って視線を伏せる。彼の高級そうな革靴の先端には、少しだけ泥がついていた。
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