カルマの法則 | ナノ

青天の霹靂

─父親が死んだ。

そう連絡が入った時のことはイマイチ覚えていない。古文の授業中だった。いつもと変わらない、なんてことない昼過ぎ。窓際の席で、初夏の風を感じながら、グラウンドで体操する生徒たちの声を耳にして…

突然、生徒指導の先生が教室に飛び込んできた時。自分の名前を呼ばれた時。先生と一緒にタクシーで病院へ駆けつけた時。

なにもかも曖昧だ。

気がつけば葬儀は終わっていて、親戚に励まされていた。母は泣いていなかった。同じ市内で一人暮らしをしていた姉は居なかった。今思えば、葬儀の席に死んだ父の息女である姉がいないのはおかしいことだった。

でも気がつかなかった。きっと父を失ってショックだったから。父との思い出が、小さな頃から、最後に会話をした時のことまでが頭をグルグルしていて、不格好な父の手の温もりを思い出そうと必死で、周りの世界のことなんて気にもならなかったから。

全てがおかしいと気がついたのは、それから数日後。葬儀からの数日間をどう過ごしていたのかも覚えていないけれど、とにかく数日後。

私は強面のスーツのおじさんたちに誘拐されそうになった。いや、誘拐じゃないのかもしれない。だって、私を養ってくれる人も、育ててくれる人も、探してくれる人すらも─すでにあの家には、"家族四人で過ごしたはずのあの家"には『誰も』いなかったのだから。

父は会社を経営していた。たいした会社じゃない。ほんのちっぽけで、あってもなくてもいいんじゃないかってくらいどうだっていい小規模な会社。

実の娘の私だって何をしていたのかも知らない、「そういえばパパって社長なんだっけ?」とか思ってしまうような存在だった。

だから、経営難でどうこうとか、不渡りがどうしたなんて話、一切知らなかった。

それは私がまだ高校生だったせいかもしれないし、父に興味がなかったせいかもしれない。

別段裕福でもない、普通の家庭の次女。
平凡を絵に描いたような、ただの女子高生。
スレることもなく、優等生でもない。
18歳になったばかりの女の子。

それが私のスペックのはずだったのに。
……………………………………………

「誰ですか?」

私は声を振り絞った。

いつもの習慣通りに高校に行こうとした私を、いつも通りに送り出してくれる母が居なかった。どうしてだろうと思いながらも家を出たら、家の前にスーツのおじさんがいた。

違和感。それを感じた時、すでに腕を掴まれていた。その人は父より体格がいい。水泳の時だけ元気になる体育の先生より肩幅が広く、スーツより道着のほうが似合いそうな体格をしていた。

「お嬢ちゃん、この家の娘さんだね。」

「はい。」

「それじゃあちょっと、事務所まで来てもらおうか。話さなきゃなんないことがあってね。」

「放課後じゃダメですか?」

「ふふ。冗談はよしなよ。お嬢ちゃん。」

別に冗談を言ったつもりはない。ただ単に、「高校へ行かないと」という意思が働いただけ。この状況を飲み込めないでいただけ。

けれど、どんなに混乱していても、時間は経過する。相手は行動を起こすし、それに合わせて私も"動かされて"しまう。

私は乱暴に腕を引かれ、おじさんの後ろにあったおんぼろのワゴン車に押し込まれる。抵抗をする暇もないくらい、あっという間のこと。

きっと慣れているんだ。そう思うことしかできなかった。

「可哀想だと思うよ。イオナちゃんだっけ?君はもちろん悪くない。だけどさ、親が悪い。『借金の返済に当てる予定だった親父さんの保険金を持って夜逃げした君のお袋さん』が悪いんだ。」

「借金?保険金?いったいなんの…」

おじさんは口調だけ優しかった。私の太股をイヤらしく撫でながら、これまで父がどんな仕事をしていたか。関連会社が不渡りを起こしたせいで、どれだけの借金を被ったか。それに巻き込まれる形で自らも不渡りを出し、どれだけの人に迷惑をかけたかを話してくれる。

責任感を感じた父は、自害することで降りる生命保険で全てを補おうとしたらしい。私たちの最低限の生活を守ろうとしたらしい。

けれど、それを覆したのは母だった。

受取人となっていた母はその金を持って、長年交際していた浮気相手と夜逃げした。姉はすでにその計画に勘づいていて、葬儀の前にアパートを解約し、遠くに逃げていたらしい。

なにも知らないのは自分だけだった。
私が父の死を思い、喪失感に打ちひしがれている間に、母も姉も自分のことで必死になっていて、自分のための時間を生きていたのだ。

なによりショックだったのは、普通の、一般的だと思っていた自分の家族が、父の死以前に《崩壊》していたこと。

仕事で忙しい父と、いい歳してお稽古事に精を出す母と、大学生の特権だと言って勝手に一人暮らしを始めた姉も。

みんな一つになる気なんてなかった。
1つの家庭だと思っていたのは私だけだった。

あまりに簡単に伝えられた、残酷な現実に私は呆然としていた。怖い人の車の中で、警戒心もなく放心状態。

この後、自分がなにをさせられるのか。どんな目に合うのか。そんなことを考える余裕はない。

おじさんは全てを話終えると、優しく言う。

「お嬢ちゃん、悪いんだけどね。君の学資保険も解約されてたし、君名義の通帳もからっぽ。だからさぁ、責任持って返済してほしいんだ。ほら、君はまだ若いし…」

太股を撫でていたおじさんの手が、スカートの中に入り込む。気持ち悪い。私は反射的に悲鳴をあげて、その手を振り払った。

けれどおじさんはそれを怒ることもなく、優しく鼓膜を撫でるような柔らかな口調で続ける。

「最初は嫌だと思うよ。怖いかもれしない。だけどね、慣れるまであっという間なんだ。だから…」

聞きたくない。聞きたくなかった。死にたいと思う余裕もない。もう閉ざしてしまいたい。瞼も、鼓膜も、心もなにもかも…
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