カルマの法則 | ナノ

順風満帆

初日のあの騒動から数日。

イオナは主にサボの仕事を手伝っていた。とはいっても、小柄な体格のせいか、その誘導は大型トラック等からは見えにくいらしく、主に迷い混んだ一般人の乗用車を正しい道路に誘導する仕事を請け負っている。

気がつけば、近隣住民(主におじいちゃん)の話し相手をさせられていたりもするが、本人としては順調に仕事をこなせているつもりであり、やりがいも感じていた。

なにより、女子同士の微妙な駆け引きから完全に隔離された社会というのが新鮮で、男同士の素っ気ないながらも思いやりのある荒いやり取りの面白さを客観的に堪能できることを楽しんでいた。

手探りながらも順風満帆。
新しいことを覚え、新しい生活のリズムに馴染むのに必死なイオナは、たくさんのものを得ると同時に、いろいろなものを見落としていた。

いつもどおり、警備員用の制服を身に付けたイオナは、サイズ違いのヘルメットを目深に被る。

エースから「ちょうどいいのを用意してやるから、今日のところはとりあえずこれで。」と、ヘルメットを手渡されたのは数日前。

どうやらそのこと自体を彼は忘れているようで、イオナもまた大きなサイズでも問題ないのか全く気にしていない。

ずれるヘルメットを直しつつ、裏のドアから現場に入るイオナ。制服はサボの所属している会社からの貸し出しだったためか、サイズはピッタリだった。

「おはようございまーす。」

イオナは遠慮がちに声をかける。すでに作業は始まっており、ほとんどの作業員は骨組みだけの建物の上にいた。大声で挨拶しないのは、彼らの邪魔をしないため。

ビームサーベルような交通整備用バトンを手に、ずれるヘルメットを押さえつつ現場を通り抜ける。

紅一点である彼女の存在に馴れたのか、はたまた初日の騒動で懲りたのか。別段色めき立たない作業員たちと、すれ違い際に軽く挨拶をしながら持ち場へと足を進めていたイオナだったのだが。

「よう。」

突然正面に立ちはだかったその存在に、思わず後ずさってしまう。ここのところ姿をみなかったあの時のセクハラ作業員。

彼の姿が見えないことを心の隅では気にかけていたものの、本人を前にするとあの時の複雑な感情が込み上げてくる。

焦燥と不安の混じった表情で硬直するイオナをみて、セクハラ作業員は口角を持ち上げる。微笑みを浮かべているようにも見える表情だが、どうみてもそこに好意的な感情はうかがえない。

「おはよう、ござ…「覚えとけよ。」

挨拶を遮るように吐き捨てられた言葉。聞こえていたにもかかわらず、その単語が頭に入ってこなかったために、思わず「え?」と聞き返してしまう。

途端に彼はニヤッと笑った。
まるで標的をみつけた殺人鬼のように。

「覚えとけ。つったんだよ。」

憎しみのこもった印象深い声。たった一度鼓膜を揺らしたその言葉は、脳みそで繰り返し反響され続けた。
…………………………………………………

あの作業員が生きていたことにはホッとした。内心、「海に沈められたんじゃないか」「埋められたんじゃないか」と疑っていたのだから、当然だろう。

しかし、その反面で、彼がそこにいるというだけで、心が落ち着かないのも確か。再開した途端に、「覚えとけよ。」などと言われたのだから、なおさらだ。

「俺は間違ってると思うぞ。」

「その話はもういい。」

「いや、よくない。」

イオナと同じく、彼が現場に戻ってきたことを快くないと思っている存在が一人。サボとエースは顔を合わせた途端から、ずっとこの調子で言い合っている。

「俺はアイツと仕事をしたくない。アイツの顔をみるのも嫌だ。」

「なに思春期の女子みたいなことを言ってたんだ。だいたいお前の仕事は外だ。一緒に作業やってるわけじゃないだろう?」

「思春期の女子なら口では言わずにSNSで発信してるっての。リツイート祭りで、場合によってはアカウント炎上。おまけに住所特定…。って、話を反らすなよ。」

「いや。今のは勝手に脱線したぞ。」

「ん?そうなのか…?」

サボは不思議そうな顔をして、イオナを伺い見る。審判を任されたような気がしたが、話の内容が内容のだけに、曖昧に微笑むことしかできない。

そんなハッキリしようのない状況を見兼ねたのだろう。エースはいつの間にやらイオナの手から抜き取った交通整備用バトンで、サボのヘルメットを 叩きながら、言葉の通りコンコンと説教をし始める。

「おい、サボ。よーくみてみろ。イオナが、困った顔をしてるだろ。お前だって、女の子を困らせてる悪い男の一人じゃねぇか。」

友人から向けられたジト目に懲りたのだろうか。サボは一瞬バツの悪い顔をしたあと、イオナに向かって「巻き込んでゴメンな。」と軽く謝る。

いつもより聞き分けのいいサボに、エースは驚いた顔をするが、その一拍後には全てを把握した。

イオナに謝罪をしたサボはその行為に気を取られているエースに向かって、赤く点滅するバトンを振りあげる。きっと彼が驚くことを予測していたのだろう。

悪戯っ子のような笑顔で、渾身の一撃を叩き込もうとするサボ。しかし、エースの反射神経も半端ない。

そのバトンがヘルメット目掛けて振り下ろされる寸前で、エースは手にしていたバトンを横に倒し、頭上に掲げた。

呆気に取られるイオナ。
二人には互いの動きが見えていたようだが、彼女にはその半分も見えてはいない。

バキッ

二本のバトンが激しくぶつかる。途端にプラスチックのはぜる音が空に響く。そして─

バンッ

その破片が、偶然トイレから出てきたゾロの頭にぶつかった。

ヘルメット越しの衝撃に、彼は不思議そうな顔をして振り返る。そこでイオナは気がついた。今しがた破片を散布したバトンを、いつの間にやら握らされてていることに。

「お前…」

「え、いや。私は…」

視線を泳がせる。泳がせるフリをして、サボとエースの様子をうかがう。申し訳なさそうに鼻の頭を掻くエースと、手ぶらで知らんぷりを決め込もうとするサボ。その白々しい態度が逆に怪しいのだが、それにゾロは気がついているのだろうか。

「私じゃなくて…」

違うという意味を込め、顔の前で両手を振る。けれど、右手に握らされていた折れたバトンごと振ってしまったので、逆に私ですアピールをしてしまったようになる。

不機嫌そうに目を細めるゾロ。
彼は足元に落ちている赤い破片と、イオナの手元のバトンを交互に見て、さらに不機嫌な顔をした。

疑われている。っていうか、完璧に犯人だと思われてる…。

どうしよう。

そうこうしている間に、破片を拾い上げたゾロが歩み寄ってくる。イオナは無意識にバトンを持った手を背後に回しながら、曖昧な表情をする。

謝るべきか、それでも違うと主張すべきか。「サボさんがー」と全てをバラしてしまうか。光速で頭の中を巡る選択肢。

対抗策を見いだせないままに、真っ正面に立ち止まったゾロに見下ろされる。有無を言わせない尖った視線に、この状況がどうしようもないものであることを悟った。

「あの…」

素直に謝ってしまえば許してもらえるだろうか。逆に全てを見透かされていて、「お前じゃないのに何で…。」と叱られるかもしれない。

思わず視線を伏せたところで、右腕をグイと掴まれた。

「え?」

「貸せよ。」

「なにを…」

「バトン。」

淡々と会話を続けていたが、そのやりとりの間に、すでにそれはゾロに奪われていた。

「ごめんなさい…」

「謝らなきゃなんねぇ奴はこっちだろ。」

ゾロはおもむろにそう言うと、手にしたばかりのバトンを振り上げ──すでにその場を去ろうとしていたサボのヘルメット、その後頭部の部分にバコンッと振り下ろされた。

思わず悲鳴をあげそうになり、口を押さえるイオナ。バトンは更に砕け、赤い破片を飛び散らせる。

けれど、それほどの衝撃を浴びた張本人はなんとも平然としていた。

「痛ッ、今の、本気だろ!?」

「本気だったらヘルメット割れてるだろ。」

慌てて振り返るサボに、エースが落ち着いた調子で言葉を返す。ゾロはさらに砕けたバトンで手遊びしていて、状況についていけていないのはイオナだけ。

「お前馬鹿力なんだから加減しろよ。」

「とりあえず謝っとけよ、サボ。」

「とりあえず謝って許してくれる相手じゃないだろ。だからトンズラしようとしたってのに。」

「それがダメなんだろーが。」

不満を吐露するサボに、あきれ顔を向けるエース。あれだけの衝撃を受けたにも関わらず、なんともない様子のサボに驚いていたイオナだったが、折れたバトンで手招きするゾロが視界の縁に映った。

いつの間に距離を取っていたのかはわからない。けれど確かに彼は、エースやサボ、イオナからわずかに遠ざかった位置にいた。

会話をしたのは初日のあれ以来。

なんの用事だろうかと不安に思うと同時に、泣き顔を見られたことに対する恥ずかしさが今さらになって込み上げてくる。

誰の仲介も受けられないであろう状況での手招き。それの意味するところを深読みするイオナだったが。

なんの反応もせず、たじろいでいたせいだろうか。

ゾロが少しだけ歩み寄ってくる。そして、あからさまに困った顔をして言う。

「もう怒ってねぇって。」

「え?」

「これの話じゃなくて…」

バトンをこれと表現したゾロは、一瞬、サボの方を伺い見た後、作業現場へと目を向ける。そこに居たのは気だるげに足場を伝い歩くセクハラ作業員。

あのやりとりを目撃されていた?

一瞬そんなことが頭に浮かぶ。今度こそ、彼は日本海の底に沈められ、いなかったことにされてしまうのではないか。

どんなに落ち度がなくとも、自分のせいで人が死ぬのは気分が悪い。あの日のサボの殺気を思い出し、顔の筋肉が強ばる。

そんなこちらの緊迫した心境など知るよしもなく、ゾロは勝手に言い放った。

「てめぇの身はてめぇで守れよ。」と。

イオナは目を丸くする。
それは確かにゴリラ的な例え話ではあっが、先日"守ってやる"と言ってくれたじゃないか。

どうして。なんで。急に!?

いちいち抗議的な目を向けることこそしなかったが、困惑の色は隠せない。

「現場では絶対に一人になるな。飯や便所に行くときも誰かに声かけろ。」

「それは…」

「エースさんやサボさんを信頼すんのは構わねぇが、それでも気を抜くな。」

そんな大袈裟なことだろうか。いや、逆恨みを買っているのなら、どれだけ警戒しても足りないくらいなのだろう。それでも──

平穏な暮らししかしたことのなかったイオナが、急にそんなことを言われたところで、迅速な対応が出来るわけがない。

歯切れの悪い彼女の態度をみてゾロはなにを感じたのか。困ったように頭を掻く。その態度自体はデート中に彼女のワガママをもて余す青年のような純朴さがあったのだが、ゾロのその厳つい外見がその効果を打ち消してしまっていた。

「俺らが見てないとこ狙われたら、いたたまれねぇだろ。解れよ。」

「ごめんなさい…」

「いや、謝れっつってんじゃなくて…。」

「おい、ゾロ。俺の妹を口説くなよ。」

ゾロが更に困ったように頭を掻いたタイミングで聞こえた、からかい交じりのヤジ。その声の主は紛れもなくサボであり、「妹」という単語がまたそれを結論付ける。

え?今の口説かれていたの!?

一瞬、釣られて困惑するイオナ。それが馬鹿な勘違いであると気がついたのは、「アンタの妹じゃねぇだろ。」というあきれ声の突っ込みが耳に入ったから。

「ほら、エース。ゾロの奴、口説いてたことは否定しなかったぜ。」

「…お前、ほんとに殴られるぞ。」

カラコロと笑うサボに、エースはジットリとした目を向ける。ゾロは苛立ちを堪えようとしている様子だっが、そのコメカミの痙攣は隠しきれていなかった。

楽しい。

警戒しろと言われた直後にも関わらず、イオナは不覚にもそんな感情を覚えてしまう。

この人たちがいれば大丈夫。きっとあの作業員の発言だって…

「ハッタリだよね…。」

ポツリと溢れた言葉。それは紛れもなく、その状況とはかけ離れた、小さな希望だった。


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