ドアの開く音がして、玄関の方からガサガサとナイロンの擦れる音がする。借りたままだったマルコの上着を膝にかけ、体操座りしていたイオナは緊張から膝を抱く腕に力を込めた。
「ただいまぁー。あれ?誰もいねぇのか。」
襖を隔てた向こう側から聞こえる声はずいぶんと優男風だ。イオナは一瞬、なにか返事をした方がいいのだろうかと考えたが、「ここにいる全員が優しい訳ではない」とマルコが言っていてたことを思い出し、慌てて口をつぐんだ。
「あぁー。腹減った。」
足音が近づいてくる。イオナは隠れられそうな場所を探すけれど、当然ながらそんな場所は見当たらない。それ以前に、隠れたところでどうすることもできないのだから、この場にいるしかないのだが。
スゥーッと音を立て、襖が開く。
反射的に身を固した彼女をみて、作業着姿のその人は「うわっ」と驚きの声をあげた後、一人納得したように「あぁ、この子が…」と呟いた。
「あ、あの…」
「イオナだったな。今日からここで暮らすんだろう?ほら、なんだ。家庭の事情で。」
「はい。そうです。」
「そんな緊張しなくていいぞ。俺はマルコと違って荒事は得意じゃない。」
マルコさんは荒事が得意なのか。イオナは、あの事務所の中で感じた緊張感を思い出す。彼らは命の危険を感じていたのだろうか。
「エースさんですか?」
「そうそう。俺がエースだ。メシ買ってきた。食うだろ。一緒に食おうぜ。腹減って死にそうなんだ。」
ナイロンの擦れる音の正体は、たくさんの惣菜が詰め込まれたスーパーの袋だった。二人で食べきれる量とは思えない大量のパックにイオナは唖然とする。
「ごめんな。俺、汗臭いだろ。平日は現場にでなきゃなんねぇから。いや、でもちゃんとえいとふぉー?とか使ってんだけどな…」
「あ、いえ。臭くないです。」
「ならよかった。あと数年したら加齢臭とか気にしなきゃなんねぇのかな。嫌だよな。おっさんになるって結構キツいよな。」
エースは捲し立てるように喋り続ける。それと同じ進行で、大口を開けて口に放り込んだ食品をモグモグと咀嚼する。
お腹が空いていなかったイオナは、マルコからもらったお茶で喉を潤す。スーパーの惣菜なんて食べたことがなかった。いつだって母が手料理を振る舞ってくれていたからだ。
「食わねぇのか?」
「食欲がなくて…」
「んあ。今日は大変だったもんな。プリン食え。このプリン旨いぞ。」
旨いぞって、これ、普通のプッチンプリン…
小学生の頃以来の、お子さま向けプリン。差し出されるがままに受け取り、封を開ける。スプーンで掬って口に運ぶと懐かしい味がした。
「明日は旨い飯食いに行こうな。うちの現場の近くに店があるんだ。そこの奴が、女の子連れてったら喜ぶんだよ。」
「現場、ですか?」
「あぁ。今、家を建ててんだよ。家つっても、なんかこう、事務所と自宅が一緒になったようなヤツで──」
少年が夢を語るように明るく話し続ける、少し歳上と思われる男性。イオナはプリンを口に運びながら、嬉々とした希望に満ちた声に耳を傾けていた。
……………………………………………………………
最初に彼女が通された建物はどうやら 母屋だったらしい。寮はその離れにあった。離れといっても、二階建てのアパートのような造りで、そこらの住宅街に建っているそれよりはずいぶんと立派だ。
イオナの部屋は角部屋で、隣はエースの部屋らしい。壁が薄いから声には気を付けてほしいと言われた。
一人部屋な上にテレビもない。親しげなエースの態度に馴じんできていた彼女は不覚にも「ここの人は一人でも喋るんですか。」と口にしてしまう。
途端にエースは赤面した。「そうだよな。そうだった。そうだった。」と動揺しっぱなしの彼に小首を傾げるイオナだったが、エースの言葉の意味を知るのは1ヶ月後のこと。
「トイレは各部屋にあるけど、風呂はない。だからってここの風呂は使うなよ。共用だから。母屋にある家政婦さんの風呂を借りてくれ。ここの風呂は絶対ダメだからな。」
赤面したままのエースは早口で説明を終わらせると、「じゃあな!」と部屋を出ていってしまう。イオナはしばしポカンとしていたが、部屋の隅にあるコンセントプラグで一代のスマートフォンが充電されていることに気がついた。
「えぇっと、これは…」
エースに聞きに行こうか。イオナはスマホを手に取る。もともと持っていた自分のものは、マルコに預けてある。データだけはSDカードに写してしもらったが、それも「使わないように」と言われている。
学校の友達は心配しているんじゃないだろうか。変な噂が立っているんじゃないだろうか。荷物はどうなってしまうんだろう。
考えるほどに不安で心配だった。けれど、これが安全に、無難に生きていくための最低条件なのだ。
せめて母が捕まるまでの。
警察でない組織に母を捜索させること。母親を捕まえさせること。それは彼女にとっての「最大の不幸」になるであろうことは理解できている。
それでもそうするしか手はない。
自分が平穏を取り戻すには母を切り捨てるしかない。母や姉がしたように、今は今のことだけを考え、ここに身を寄せているしかない。
仮にいつか後悔するとしても。
………………………………………………………………
翌日。
イオナはエースからの電話で目を覚ました。夕方に昼寝までしていたはずなのに、柔らかいベッドのおかげか不思議と眠ることができ、目覚めた時の気持ちよさは昨日の騒動の全てを一時的に忘れさせてくれた。
朝食は母屋の家政婦が準備してくれており、しっかりとした和食だった。おまけに昼食用の弁当まで持たせてくれ、お礼を言うと「あらあら」と笑われた。
エースいわく、ここにくる人のほとんどは、それまでの生活環境のせいでお礼が言えなかったり、態度が粗悪だったりするらしい。場合によっては悪態をつくものもいて、家政婦たちも初対面は緊張しているのだとか。
警戒しているところで丁寧な態度をとられたことで、思わず笑ってしまったのだろう。ということだった。
「現場、見にくるだろ?」
「邪魔じゃないですか?」
「手伝ってくれりゃ、邪魔じゃねぇよ。んじゃ、俺は着替えてくる。イオナも動きやすい格好してきてくれ。そのままじゃあれだろ。」
イオナは寝間着がわりに高校のハーフパンツと薄手のTシャツ姿だった。エースもまた寝間着なのだろう。ジャージにTシャツ姿で、黒髪がピョンッと跳ねている。
お互いに外を出歩ける装いではない。
10分後に待ち合わせをして、二人は各々の部屋に戻った。
イオナは動きやすい服装に着替えながら考える。もしかしたら自分はすごく素敵な人たちに救われたのではないかと。
to be continued
prev |
next