イオナにとって江戸和組の組長も、あの事務所から救いだしてくれたマルコも、江戸和組と口を利いてくれた誰かも命の恩人だ。
彼らは慈善事業をしている訳ではないので、無条件で助けてくれた訳ではないが、それでも救ってくれたことに代わりない。
イオナがこの江戸和組でお世話になるための条件は、「江戸和組の系列組織に母親の捜索を依頼すること」だ。
イオナが江戸和組と契約を交わした時点で、彼女の母親は『捜索対象者』となる。ありとあらゆる情報網を駆使して見つけ出され、それなりの罰を受ける。対象者の全財産は成功報酬として江戸和組のものとなるのだそうだ。
その間、イオナは依頼人として江戸和組の保護下に収まる。そうしていないと、再び連れ去られる可能性があるということだった。
「君のお袋さんには悪いが、お金は返して貰わないとねい。依頼がある以上、こっちも必死で捜させて貰うよい。」
「よろしくお願いします。」
母親はどんな罰を受けるのだろうか。あまりに非現実的な話過ぎてピンとこない。大金を持って行方を眩ませた人間を、そう簡単に見つけ出すことができるのか。父の命と引き換えに手にいれた金はどのくらい残っているのか。
難しい内容をわかりやすく噛み砕いて説明してくれるマルコの言葉に頷きながら、イオナは考えていた。
安全な生活は保障されたこと。高校は辞めなくてはならなくなるものの、高校卒業認定程度の勉強なら教えられる人がいるということ。母さえ見つかれば、大学にも通え、将来の夢を持つことも可能なこと。
いいことばかりではないが、悪いことだけじゃない。むしろ、それを選ぶしか"普通に生きていく道"は存在していなかった。
母はパスポートを持っていなかったため、国内にいるのは確実らしい。ニセのパスポートを所持していたり、密航していれば話は別だが。
ただその可能性は低いらしい。どんなに大金があったところで、手引きしてくれる人間を数日間で見つけることは難しいようで、実質"不可能だろう"ということだった。
母が見つかるかもれしない。その可能性があることを知ったところで、それを『希望』とは思えない。
見つかった時、捕まった時、どんな顔をするのだろうか。自分を捨てた母親の気持ちなど、想像できそうにもなかった。
信じられない話しばかりだったが、中でも驚いたのは、江戸和組にイオナの保護を頼んだのが、すでに行方不明となっている姉の友人であったということ。
どうにもマルコの口ぶりからイオナとも顔見知りであるようだ。
思わず訊ねてしまう。
「それは誰なんですか?」と。
「俺の口からは言えないんだよい。」
残念そうに肩をすくめるマルコ。彼は感情の読み取りにくい表情ばかりしているが、このときばかりはあからさまに「ごめんね。」と言いたげな顔をしていた。
「しばらくここで待っててくれよい。俺は別件を片付けてくるからねい。」
話すべきことと契約を済ませた彼は、イオナの拇印が押された契約書を大切そうに懐にしまい、彼女にペットボトルのお茶を手渡す。
「いいかい。誰かが来たら、俺の客だと言うんだよい。絶対に組長に会いたいとか、依頼主だとか言っちゃダメだからねい。」
どうして?と訊ねるのは野暮な気がした。イオナはコクりと頷くと、部屋を出るマルコに向かって一礼した。
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それから待たされたのは約5時間。トイレに立つことがなかったのは、緊張の糸が切れたことから眠ってしまったから。
いささか緊張感のないようにも思えるが、身を売られそうになった後だ。例えここが動物園のライオンの檻の中でも、眠れたのではないかとイオナは考える。
「そろそろエースが戻ってくるよい。アイツはイイヤツだけど、ちょっと女に弱いんでねい涙のあとは拭いといてやってくれよい。」
「はい、すみません…」
「こっち側の人間のくせに優しいヤツ過ぎてねい。」
こっち側。そうか。この人たちは一般人じゃないのか。
普通に幸せに暮らしている人たちならば、関わることのない世界。そこに身を置いた自分の立ち居ちはいったいどこなのだろう。
相変わらず朗らかに言葉を続けるマルコをみつめたまま、イオナはぼんやりする。もし母がみつかったとして、どうなるんだろう。どうやって生きていくことになるんだろう。考えてもわからない。わかるはずがない。
心ここにあらずのイオナに対して、マルコは根気強く微笑みかけた。まるで何も心配いらないよ。とでも言うように。
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