涙が頬を伝う。震える手でそれを拭い、鼻を啜ったところで「大丈夫かよい?」と声をかけられた。特徴的な語尾。彼が誰で、ここが何処だかを思い出したイオナはゆっくりと身体を起こした。
ほんの数時間前に起こったことを夢にみるなんて経験は初めてで、時間の流れが掴めない。おまけに、なにが現実で、なにが夢なのかも曖昧だ。
それでも、今目の前にいる人が悪い人ではないことはかろうじて覚えていた。
「マルコさん…。あの。」
「ちっとは疲れは取れたかい?」
「はい。勝手に眠ってしまってすみません。」
「いいんだよい。むしろ、こんなところで寝かせてしまって悪かったねい。」
「いえ。」
イオナは首を振る。この人を前にすると、不思議な気持ちになる。ギリギリのところで助けてくれた人なのに、心を置ける相手とは思えない。
不自然なほどに落ち着き払っていて、その覇気の感じられない双眸からは威圧感が溢れていて── 一目見た瞬間から、彼が『普通の人』でないことは明白だった。
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事務所があるらしい古いビルの前で、イオナの乗せられた車は止まった。膝が震え、立ち上がれない。引きずられるようにして車から下ろされたイオナは、必死に繰り返した。「ごめんなさい。」「家に返してください。」と。
もちろんそんな懇願が通用するはずもなく、イオナの身体はビルの下で待っていた頭の弱そうな、それでいて長身の屈強な男たちに引き渡される。
殺されるより、もっとひどい目に合う。
それは本能で理解していた。だからこそ腰は抜けていたし、自分で立っていられる力もなかった。涙をボロボロと溢す少女を乗せた古びたエレベーターは、ガタンガタンと気味の悪い音を立てながら上階を目指す。
「上玉だって聞いてたけど普通じゃねぇか。」
「上玉はこのガキじゃねぇよ。姉貴の方だ。」
姉も狙われていた。でも逃げられた。どうしてお姉ちゃんは自分を連れていってくれなかったんだろう。
いささか冷静さを取り戻した、否。経験したことのない恐怖のせいか半分心の壊れかけたイオナはぼんやりと考える。
もう懇願するのもやめた。諦めた。やりたかった仕事に就くことも、幸せな未来を望むことも出来ない。
雑巾みたいにボロボロになるまで使われて、薄汚れて使い物にならなくなったら捨てられるんだ。不思議と悔しい気持ちはなかった。悲しいとも思えなかった。
エレベーターの扉が開き、古びたドアの部屋に通される。イオナはおんぼろの事務所に不釣り合いな革のソファーに、男たちに挟まれる形で座らされた。
向かい側にはオールバックの男。おじさんと呼ぶにはまだ若く、おにいさんと呼ぶには歳を重ねたどちらとも言いにくい年齢の人だ。身にまとうスーツは高級そうで、他の男たちに比べて貫禄がある。
一人がけソファに浅く腰をかけた男は、連れてこられた女子高生の涙に濡れた虚ろな顔を覗き込む。
「ここに来てもらった理由についてはもう聞かされていると思うが─」
淡々と話続ける男から彼女は目を離さない。長い長い話の間、彼もまた目をそらしはしなかった。
「─君にはうちの系列店で…」
話が終わりに近づいたところで、ドンッと大きな音を立てて事務所のドアが開いた。強面の男たちがバッと立ち上がる。ピリピリと空気は張り詰め、向かい側の男の視線もドアへと向けられる。
イオナが恐る恐るそちらへと視線を向けると、そこには奇抜なヘアスタイルの、どこか眠そうな目をした男がそこにいた。
「マルコ…、何しに来た?」
「んなこと、聞かなくたってわかってんだろい?」
「いやぁ、俺たちの事務所まで…」
「オヤジの希望で、その子はうちで囲うことになったんでねい。」
「てめぇ…」
「俺たちを甘く見られちゃ困るよい。」
マルコと呼ばれたその人は、ニタッと笑った。たったそれだけで、事務所の中の空気が冷たくなった。
助けにきた?それとも…
イオナはぼんやり考える。ただ、ぼんやりと考えていた。
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寝起きのイオナの頭を、マルコは野良猫にするみたいにワシャワシャと撫でる。イオナはもちろん抵抗しない。
「マルコさん。組長さんは?」
「あぁ。今日は戻らないらしいんで、挨拶は後日ってことにしといたよい。俺はここまで君を連れてくるのが仕事で、あとのことはエースに任せとくねい。」
「エースさん?」
「寮の管理人みたいなヤツだよい。まだ青臭いが自制心はあるんでい、身を守りたいならアイツの近くに居ることだねい。」
「身を守る?」
「寮にいるのは野郎ばっかりだからねい。夜這いされたら困るだろい?」
冗談なのか。本気なのか。イオナは寝ぼけ頭で考える。返事が無かったことについてどう思ったのか、マルコは頭を撫でる手を止め、ケラケラと笑う。
そして、「壁が薄いから叫べばすぐに助けが来るよい。」とフォローにならないことを口にした。
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もとよりイオナはマルコに、というより、江戸和組の組長である男の指示によって"保護される予定"だった。
江戸和組としてはその日、学校が終わった時間に保護する算段だったのだが、その計画に気がついた『とある闇金組織』によって彼女は浚われてしまった。
若い女の子は使い勝手がいい。そういう理由で『組織』もイオナを手放したくはなかったのだろう。
とっとと地方の風呂屋に沈めてしまえば、さすがの江戸和組を首を突っ込んではこないはずだと考え、猛スピードで話を進めようとしていたのだが。
あと一歩のところでマルコの登場。
イオナは単一で飛び込んできた彼によって、間一髪、救い出された。あと10分でも遅ければ、事務所を連れだされていただろう。
マルコは放心する彼女を事務所から連れ出し、ビルの下に停めてあった大型バイクの後ろに座らせた。
差し出されるままにヘルメットを受け取り被る。顔が隠れるフルフェイスのものだ。その上で、マルコは羽織っていたパーカーを脱いで、肩にかけくれた。
そこで初めて自分が震えていたことに気がついたイオナは、やっと心を取り戻し始める。
「あの…」
恐る恐る声をかけると、「話は戻ってからだよい。」と癖のある話し方で言い、おっかなビックリなイオナに向かって柔らかく微笑んだ。
初めての大型バイク。振り落とされてしまうのではと不安になり、イオナはギュッとマルコの背中にしがみつく。初対面の異性の背中は驚くほどに温かく、不思議なほどに頼もしかった。
まず連れてこられたのは自宅。簡単に荷物をまとめるようにと言われ、イオナはしばらく分の着替えと大切なものを数点、大きなバッグに詰め込んだ。
もう帰ってくることはないかもしれない。そう思うと泣けてきたが、感傷に耽っている暇はない。再びバイクの後ろに跨がり、しがみつく。
それについてマルコは何も言わなかった。
次に連れてこられたのは、江戸和組の本拠地らしい大きな屋敷だ。歴史ある旅館だと言われれば信じてしまいそうなほど古く大きな門があり、砂利の敷き詰められた庭がある。大きな池で色鮮やかな鯉が泳ぎ、立派な松が凜としている。
イオナが通されたのは正面の玄関から入ってすぐ、4畳ほどの畳の部屋だった。高級そうな壺が飾られている。
「オヤジは今んとこ留守でねい。俺がここでのしきたりを説明するよい。」
マルコは畳の上であぐらをかく。正面で正座をしイオナに足を崩すように声をかけたあと、落ち着いた調子で、『保護することとなった経緯と今後』について話始めた。
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