氷の入った袋で手の甲を冷やしてもらう。
その間ずっと手を握られている状態なり、イオナとしては気まずくてしかたなかった。
「エースさん、先に食べてください。自分で冷やせるし、平気ですから。」
「いいから、これくらいやらせてくれっての。」
「でも、料理が冷えちゃいますよ?」
「俺、猫舌なんだ。」
「………。」
きっとそんなはずはない。さっきから何度もエースの腹の音を聞いている。なにより、彼は寮の誰よりも早く食べ始めるタイプだ。それで猫舌だなんてあり得なかった。
(責任を感じているんだ。)
真剣な面持ちのエースを前に、イオナはシュンとする。
彼がウェイターからの気持ちに気がついている風ではなかった。きっと、自分がこの店に連れてきたせいで…。とでも考えているのだろう。
敵意を向けられているのを知った上で、相手から目を逸らしていたのだから、完全に自分の不注意だ。
イオナはそう思っているし、なにより、悪いのは勘違いしてヤキモチを妬いたあのウェイターだ。エースにはなんの非もない。
「私、もうご飯食べたいです…」
「でも…」
「エースさんも食べましょうよ。」
顔を覗き込むようにして、目を合わせると彼は驚いた顔をした。そして、一気に頬を紅潮させる。
「わ、わかった。食う。ちゃんと食うよっ!」
「エースさん?」
慌ててソファを立ち、もとの自分の席(イオナの向かい側)へと戻ったエースは、慌ただしくナイフとフォークを手に取る。
いただきますの言葉を口にした時には、すでに大きな肉をひと切れ頬張っていた。
何故、こんなにも狼狽するのか。
イオナはその大袈裟とも取れる反応にイマイチ理解できなかったが、 あまり深く考えずにフォークを手に取る。
「いただきます。」
すでにソースの沸々は収まっていたが、それでも充分に美味しそうだった。
…………………………………………………………
結局、店のなかでは深い話はできなかった。手の甲のことをサンジに知られるのを嫌がったイオナが、早く店を出たいとエースに告げたのだ。
彼はあのウェイターの処遇について、サンジになにか言いたげだったのだが、告げ口したと思われるのは嫌だったので堪えてもらった。
普段よりずっと暗い窓の外。
真っ暗の中を浮かび上がる、対向車のライトや街頭の光の中を走り抜ける。
「ほんとに大丈夫なのか?」
「こんなので救急なんて行ったら笑われますよ?」
「でも、傷になったりしたら…」
よほど心配なのか、エースは先程から火傷の話ばかりだ。外食に連れ出さなくてはならないような、なにか大切な話があったのではないか。それとも、ただあの店を見せたかっただけなのだろうか。
「あの、エースさん?」
「ん?」
「今日、外食した理由って…」
「あぁ…。そういや、忘れてた。」
恐る恐る切り出したイオナ。エースはしまったな、と言いたげにガシガシと頭を掻く。そして、ハンドルを右に切った。
「今日、サボが煩かっただろう。だから、不安にさせたんじゃねぇかと思って…。」
気遣うようなエースの口調。イオナは静かに耳を傾ける。
「確かに、イオナとアイツを同じ現場に置いとくのは間違ってんのかもしれねぇ。でも、俺はアイツを切れない。」
「…はい。」
「サボが言うように、イオナを守んなきゃなんねぇのはわかってる。弱い方につかなきゃなんねぇってことも。でも、それと同じで、アイツにも居場所を作ってやらねェといけない。それが俺の役割だ。」
「役割…」
「俺は赤ん坊の頃からここにいる。だから人並みに教育も受けられたし、手に職もつけれた。生きるのに困ったことなんてねェけど…。けど、うちの現場にいる奴らは、そうじゃねぇ。親や兄弟、 親戚なんかに、人生壊されかけた被害者だ。」
赤ん坊の頃から。それには二つの可能性がある。
この組織の人間の子供だった場合と、赤ちゃんの頃にこの組織になんらかの理由で引き渡された場合。
きっと、エースの場合は後者なのだろう。
そうでなければ、続けられた「ここにいる」という言葉は出てこないはず。エースもまたなにか『含み』のある人生を送ってきたのかもしれない。
イオナは無意識に奥歯を噛み締める。
少なくとも18年の月日を、温かな環境の中で暮らすことができた自分の人生。それはとても幸運で幸せなことだったのかもしれない。
金を持ち逃げした母を許すことはできない。
けれど、命を投げ出してまで家族を守ろうとした父の愛は信じる価値がある。
自分は守られて生活していた。
大切に思われて生きていた。
それだけで彼らからすれば異端。
ゾロが初日に言っていた『育ちが良さそう』というのは、金持ちがどうかと言うのではなく、"そういう意味"だったのだ。
自分の境遇を思い返すイオナの隣で、エースはなおも言葉を続ける。
「だからって訳じゃねぇが、俺はまだアイツを見捨てらんねェ。現場仕切ってる人間としても、男としても。」と。
誰かを見捨てたくない。それは、見捨てられたくない気持ちの裏返しなのではないか。
サボが簡単に人を切り捨てられるのは、サボ自身が切り捨てられることを厭わないから。
どちらの思考も危ういように思えるが、それは考え方の違いと性格の問題に他ならない。
そして、イオナもまたエースよりの考え方だった。もう二度と誰かに捨てられたくない。置いていかれたくない。だからこそ──
「加害者も被害者もなしでやっていきたい。だから─」
「私は平気です。」
イオナは言葉を被せる。口下手な彼にこれ以上言葉を選ばせたくなかった。なにより、お世話になっている相手に頭を下げてほしくない。笑っていてほしかった。
「─だから、もし、もしも私がなにか大きな失敗をしたとしても、その時は、ちゃんと見捨てないでください!」
「あぁ、わかった。」
見捨てられたくない。その気持ちから生まれたこの約束が、この先をどう変えるのかはわからない。
なんとなくぎこちないイオナの言葉を受け、エースは困った風な笑顔を浮かべていた。
prev |
next