「あの…」
反射的に口を開いたはいいが、言葉がでない。こういうとき、何を言えばいいんだろう。
ごめんなさい。違う。私はなにも悪くない。それじゃあ、大丈夫ですか?はどうだろう。いや、そんな他人事みたいなことを言えば、逆にキレられてしまうんじゃ…。
脳みそをフル回転させるも、いい台詞が見当たらない。ほんの2、3秒のことながら、ひどく長く感じる。どぎまぎするイオナに向けられ続ける苛立ちを孕んだ視線。
蛇に睨まれる蛙にでもなったような気分だ。
逃げることも、かわすこともできない。危険はすでに回避したはずなのに、感覚はまだそこに囚われたままでいる。
嫌な汗で背中を濡らすイオナ。恐怖心から強張ったその小さな肩が、背後からぐいと引かれた。
それは強引なようで、優しい力加減。
イオナが一歩後ずさるのに合わせて、サボが彼女の肩に手を載せたまま一歩前に歩み出る。
「ゾロでよかったな。俺が先に気がついてたら、お前の鼻は今より三センチ低くなってた。」
冗談を言うような軽い口調。それなのに、冗談に聞こえないのは何故だろう。イオナはサボの顔を盗み見るが、彼の横顔はうっすらと微笑んでいるだけだ。
「おいおい、三センチっつたら、それ、もう陥没しちまってるだろ…」
鼻の長い青年が恐る恐る突っ込みをいれる。
「陥没したからなんだ?問題でもあるのか?」
「いや…」
「女の子にイタズラする時ってのは、そのぐらいの覚悟がなきゃダメだ。やるなら命懸けでいけ。」
フェミニストなのか、バイオレンスなのかわからない主張を繰り返すサボ。鼻の長い青年は視線を泳がせるばかりで、困り果てているのが傍目にわかる。
イオナは居たたまれない気持ちになった。
気にかけてくれる人も確かにいるが、悪意を向けてくる人も確実にいる。それは一般的な社会においても同じことなのかもしれないけれど、確率はずいぶん上がってしまったに決まっている。
なにより起こらなかったはずの揉め事が、自分がここに来たとこによって起こってしまっていることに胸が痛かった。
「本来人間も動物だ。性欲があることを咎めはしないし、俺も女が好きだ。可愛い女を前にすれば口説きたいと思うし、触れてみたいとも思う。でも、それは段取りを踏んでやらなきゃならないことだろう?」
サボは楽しげに語り続ける。
「さて、お前は本能を理性で抑えられない猿なのか、傷いた女をみて喜ぶような性癖をもったゲスなのか。」
口調は軽やかで、声色は柔らかい。それでいて、その台詞がずいぶん冷たく聞こえるのは、そこに怒りが込められているから。
「なあ、どっちだ?」
些細な問いかけ。それが自分に向けられたものでもないのに、身体の芯の部分が緊張を訴える。一歩後ずさったセクハラ作業員を追いかけるように、サボが一歩踏み出す。
「本能的な変態か?それとも理性的な変態か?」
これは脅しなんかじゃない。
本当に殺してしまうつもりなのかもしれない。
目の前で誰かが殺されるだなんて考えたこともなかった。ましてや、その発端が自分である可能性なんて─
それでも思うのだ。
この人は本気で人間を殺しかねないと。
「答えろよ。ちゃんと聞いててやるから。」
サボは笑う。冷静に、冷酷に。
「おい。落ち着けよ、サボ。」
「ウソップ。お前の平和主義な性格は嫌いじゃない。ただ、このままじゃあ俺の怒りは納まらない。」
ほんの洗礼かなにかのつもりだったのだろう。ただ、胸を触ろうとしただけでここまで顰蹙(ヒンシュク)を、怒りをかうことになろうとは…
作業員がそう思っていることは犇々と伝わってくる。イオナは思わずサボの腕を掴む。
「サボさん…あの。」
「これが俺たちの"やり方"だ。」
「でも…」
そういう"けじめ"のつけ方があることは理解する。理解出来そうにないが、理解する努力はしよう。でも、その原因が自分であることは受け入れられない。
目頭が熱くなる。訴えようと思うのに言葉がでない。腕を握る手にさらに力を込める。瞬きをすれば涙が溢れそうだ。
後方から現れたエースの「お前は平和的解決を望もうとは思わないのか?」という呆れ交じりの呟きが聞こえるまで、秒針の進みがずいぶんと遅いように感じた。
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