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コンプレックス

新宿、情報屋事務所にて。

いくつかの資料が挟まれたファイルを抱え、せかせかと部屋を横切る長髪の女。

彼女が浮かべている表情に感情の色はなく、声をかけづらいどころか、近寄りがたい雰囲気が漂っている。

それでもその雇い主である折原臨也は特に躊躇うこともなく、爽やかな声をあげた。

「波江さん。ちょっといいかな?」

「何?」

そっけない返事と冷たい視線。
今忙しいの。とでも言いたげな声色であったが、彼がそれを気にかける様子はない。

パソコンの画面に視線を落としたまま、淡々と言葉を紡ぐ。

「君のように眉目秀麗な女性の意見を是非聞いてみたいと思ってね。」

「だから、何?」

「おやおや、せっかく褒めてあげたんだから、ちょっとは照れるなり、謙遜するなりしたらどうだい?

そんなんだから、首だけ女にかわいい弟をもっていかれて…、おっと、そんな怖い顔をしないでくれよ。」

どうしても波江の意識を自分に向けたくて、彼女の前ではタブーとされている「首だけ女」やら「弟」やらといった単語を並べ立てる臨也。

相変わらず青く光る画面に意識は向けられているが、その視界の隅で波江のこともしっかりと観察していた。

そんな臨也に対して、波江は机の隅を指先でトントンと小刻みに叩き苛立ちを露見させる。

手に持っていた資料はすでに棚の中へと戻されており、なにか作業をしている様子もない。なんだかんだで彼の話を聞くつもりでいたことは明白だ。

そんな忠実な社員に敬意と感謝の気持ちを込めて、臨也は視線だけでなく意識も彼女へと向けた。

「さて。波江さん。君に聞きたい。」

「………。」

「昨今耳にするようになった『素人童貞』なんていう、矛盾だらけの言葉についてなんだけど…。羞月閉花でありながら、佳人薄命とも言える君はこの矛盾についてどう思う?」

滑らかな口調で紡がれた言葉ではあるが、内容は疑問を感じざるを得ないもの。

どこかの闇医者のように"褒めているのか貶しているのか解らない四文字熟語"を駆使して彼が隠そうとしているのは、『素人童貞』という単語のインパクトなのだろう。

それを悟ったからこそ、波江は『佳人薄命』などという失礼極まりない発言をあえてスルーし、無言で眉を潜めた。

「女性には処女膜と呼ばれる、証明書みたいなものが生まれもって添付されている。

それに比べて男に童貞を裏付ける決定的な物はない。自発的に"俺はプレイボーイだ"と周囲に告げれは、そこで彼はプレイボーイにもなり得るし、何度でも童貞を装うことももちろん確かに可能となる。」

ここで一度言葉を区切る臨也。
間を取ることで話の内容に深みを持たせようとしているのだろうが、その効果はイマイチだ。

もちろん波江はなにも言わなかった。熱心に語られたところで、主題がどうでもいいことなのだから、興味など沸くはずもない。

しかし、そんな彼女の心情になど興味はないのか、特に表情を変えることなく臨也は台詞を再開した。

「何故、彼らは童貞だと位置付けられるのか。何故、挿入を一度経験している評価されるべき人間が、"一般人とは経験がない"というだけで、『素人童貞』という不名誉な称号を─」

「臨也あなたまさか…」

「─おかしい。実に不可解だ。初めて出来た彼女がソープ嬢、はたまたポルノ女優だった場合。その場合はどうなる?彼女が性のプロというだけて、プライベートな場面であっても─」

「まさか一般人との、」

「─それは無効となるのだろうか。ボクサーは道端で人を殴り付けてはいけないように、風俗嬢やAV女優はそれを生業としているだけで─」

まるで波江の台詞から逃れるかのように言葉を続ける臨也に対して、彼女は決定的な台詞を声のトーンを1つあげた上で、ただ淡々と突きつける。

「臨也、あなたまさか一般人との経験がないの?」

一瞬の沈黙。

そして、あからさまに彼の纏っていた空気が乱れた。

「─な、なにを言ってるんだ。俺は認めない。それが金を払って得た挿入だとしても─」

「風俗でしか経験がないのね。」

念を押すように淡白な口調で繰り返す波江に、臨也はあからさまにひきつった表情をみせる。

それでは認めたも同然なのだが、尊厳を傷つけられたような気がして冷静さを失っている彼は気がつかない。

「風俗嬢の彼女がいたってことも考えられるけど…。違うのね。」

「波江さん。俺はただ─」

「違うのね。」

みるみるうちに、彼女の表情が勝ち誇ったものとなる。

どこまでも奔放であり、弱点のみえない男の触れられたくない部分を知った優越感は計り知れない。

常に周囲の人間を見下し、高みの見物をしている彼のコンプレックス。それを手にした彼女は女王様とも言えようか。

「てっきり誰かを陥れた快感でオーガニズムに達する変質者かと思っていたけど、中身は普通の男の子だったのね。」

「なにを言ってるんだい、波江…」

「いいと思うわ。素人童貞って言葉があなたにはお似合いよ。憎まれ役のあなたがプレイボーイなんて、全うに生きようとしている静雄が可哀想だわ。」

その台詞を聞き終わるか終わらないかで、臨也はギチリと奥歯を噛み鳴らす。

それは排他的な関係である静雄の名が出たからなのか、はたまたプライドを切り刻まれる屈辱から堪え忍ぶためのものなのか。

「いいと思うわ。ちゃんとお金を払っているなら、誰も否定しない。ただ、素人に対しては経験値不足であることは肯定せざるを得ないと思うけど。」

今にも鼻唄を歌い始めそうなほどに上機嫌な波江。彼女が弟以外のことでここまで気分を上げることは今までになかった。

そこだけをみれば、臨也は"波江の感情を起伏させることのできる希少価値の高い人物のうちの一人"であると言い切れるのだが。

それは決して、彼にとって嬉しいことではなく──それどころか不快感しか覚えられない状況だ。

「心配しないでいいわ。雇用主のあなたの尊厳を傷つけるようなことはしないから。」

「それは助かるよ。アハハハハ…」

冷たい空気の漂うオフィスに渇いた笑いが響く。

高笑いこそ聞こえないが、波江の纏うオーラは闇よりも深く、風俗街よりも怪しく煌めいていた。

to be continued

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