文化祭まであと少し | ナノ

プロローグT

放課後。サッカー部ミーティング室。

「エースぅ、もう一回、ね?」

顔を覗き込んでくるイオナの笑顔に俺は圧倒されて、ギリギリまでボタンの外された胸元から覗く、汗ばんだ胸元に息を呑む。

この瞬間を待ちわびていたはずなのに、俺は動けないでいた。

ただその胸元に釘付けで─

揺れる谷間がそこに─

イオナの─

「あぁぁぁあああああああーっ!」

エースは雄叫びをあげながら、身体を横たえていたソファから跳び起きた。

全身から溢れる冷や汗。学校指定のワイシャツはすでに背中に張り付いている。額から流れる汗を手の甲で拭いながら、そこが夢の中と変わらないミーティングルームであることを確認した。

「あぁ…、うわぁ…」

ずっと夢みていたことを夢で経験したにも関わらず、あれが夢で良かったと心から思う。情けない声を漏らして両手で頭を抱えるエースに投げ掛けられるのは、低く唸るような声。

「うるせぇよい。」

「悪かったよ、マルコ。」

その声の方に視線を向けると、彼はパソコンに向かっていた。きっと来月の大会についての資料をまとめているのだろう。

「早く収めとかねぇと、イオナちゃんがここに来ちゃうよい。」

「あぁ、わかってるよ…。」

エースはそう答えると、夢の影響を受けまくっている股間へと視線を落とし、苦笑を浮かべる。

他者からみてもわかるくらいに、ピンッと張り巡らされたテント。

無意識とはいえ、これはどうなのだろうか。

ここのところ、こんな夢ばかり見てしまう自分が情けなかった。なにより、『好きな女の子に対して(無意識ながらに)イヤらしい目を向けてしまっていること』に嫌気すら差していた。

イオナがあんなことするわけ…

そこまで考えたところで、エースは再びマルコへと視線を向け声をあげる。

「ってか、なんでマルコがイオナの名前知ってんだよ!?」

「寝言で繰り返してたよい。」

「…!?」

顔を真っ赤にして絶句するエースをみて、マルコはフフッと口角を持ち上げて笑う。

歳の離れた弟をからかうような感覚なのだろうが、やられる方は窒息しそうなほどに恥ずかしがっているので是非ともやめてあげていただきたいものだ。

「顔でも洗ってスッキリしてこいよい。」

「あ、あぁ。」

エースはのっそりと腰をあげ、洗面台へと向かった。

サッカー部が県内でもトップクラスの成績を納めるようになって5年。OBや保護者会、はたまた校長先生からの支援によって、『ミーティングルーム付き、2階建て、プレハブ仕様の物件』が校庭の隅に建築された。

1階は部室(シャワー室付き)と用具倉庫、2階はだだっ広いミーティングルームとなっており、雨天時はそこがトレーニングルームに様変わりする。

そんな優遇されたサッカー部員の城であるこの場の管理主であり、部が招いている外部コーチでもあるマルコはよくエースをからかう。

ついでを言うならば、からかうだけじゃなく驚かすのも好きだった。

「なぁ、マルコ。洗面台んとこの石鹸、石鹸じゃなくて泡のヤツにしてくれ…ぁあ?な、な、なんでイオナがここに!?」

洗顔とトイレを済まし、洗面所から戻ったエースは、ソファに腰掛けるイオナの姿に絶句する。

「お疲れ、エース。マルコさんが中で待ったらって声かけてくれ…」

彼女ははにかんだ笑みをマルコに向け、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出したマルコはこちらに向けて嫌な笑みを浮かべている。

招き入れるならそう言ってくれよ…

抗議的な目を向けたところで、彼が気にするわけがない。

イオナはマルコの差し出した缶を「ありがとうございます。」と、両手で受け取った。そのしぐさがどうにも可愛くて、目を奪われるが──相変わらずのマルコからの視線を受け、エースはフイッと顔を背けた。

彼がイオナに下心を向けるなんてことはまずないだろう。

そこは安心していい。

ただ、ただ…

エースは「帰る」と言い出せず、イオナの座るソファと直角の位置にあるソファに腰掛けた。

マルコはそれに合わせて口を開く。

「イオナちゃんは彼氏とかいるのかよい?」

「お、おい!?」

イオナが口を開く前に、あからさまな狼狽の声をあげるエース。この一瞬のうちに、彼の頬は林檎のような赤に染まっている。

「わっ、エースってば。急におっきい声出さないでよ。」

プックリと頬を膨らますイオナから身を隠すようにして、マルコは肩を上下させクスクスと笑う。

彼の目的はこれなのだ。

俺をからかってやがる…

彼から以前言われた、「童貞臭さが滲みでてるよい」という台詞が頭に浮かび、イラッとする。

ただここはイオナの前なので、抗議する訳にもいかず…

「エースも乙女だねい。」

「乙女じゃねぇよ!」

「あぁ、でも確かにエースって繊細だから、乙女っぽいかも。」

「そーだろい?」

「どこがだよ!?」

「こないだも、勝手にボニーにジュース飲まれて、誰がお前の口つけたもんを飲むんだよ!って言って、全部あげちゃってたじゃん。」

「だってあれ、間接キスだろ!?」

マルコに話を合わせてるのか、はたまたイオナが心からそう思っているのか。

「自分でキスッて言って照れるなよい。」

「うっせぇわ!」

からかいの言葉を突っ込みでかわすなんていう、荒業なのかアホ技なのかわからないやり口でこの場を切り抜けるエース。

「今日のエースはキレがいいね。」

「やる気スイッチが押されてるよい。」

結局、イオナがコーヒーを飲み終わるまでこんなやりとりが続いて、消耗しきったエースだったけれど──そのおかげで、いつもよりも彼女と長く一緒にいられたことに後から気がつき、マルコに感謝したとかしないとか。

無論、口には出さなかったが。
…………………………………………

イオナを部屋に招き入れた上にコーヒーを差し出し、長居するきっかけとなったマルコに、何故か急き立てられる形でミーティングルームを後にした二人は校門へと足を進める。

「文化祭のクラス出し物がさぁ。」

「出し物?」

会話の流れからするに、どうにもイオナは文化祭の実行委員なるものを任されてしまったらしい。

HR中眠っていたエースの知るところではないが、実行委員とやらは決めることややることが多く結構大変なようだ。

女子の役員がイオナだと最初からわかっていれば、立候補してでもやりたい仕事なのだが──男子の方はエースの寝ている間にくじ引きで決めたらしい。

担任が自分を意図的に起こさなかったような気もしないでもないが、そんなことを疑ったところで……である。

「どう思う?」

「どうって?」

いろいろ余計なことを考えていたからか、彼女の言わんとしていることができずにいた。

問いかけを疑問で返し、何気なく顔をイオナへと向けたエースだったが、

「なにがいいかなぁって。」

(……ッ!!!)

さりげない流れで、ひょいっと顔を覗きこまれ悶絶する。

突然に現れた人懐こい笑顔に動揺し、エースはおもわず足を止めてしまう。それにならって、彼女も足を止めた。

しばらくはその澄んだ瞳とにらめっこしていたものの、気恥ずかしくなった彼は視線を伏せる。

そんな彼に、イオナはなおも問いかける。

「なにがいいと思う?」

「俺に聞くなよ。」

照れると素っ気なくなってしまうのは悪い癖。サボには「お前、感じ悪いな」と笑われたが、イオナは気にならないらしい。

「えぇー。でも、エースがなんでも相談に乗るって…」

あぁ、そういや、そうだった。

不満げなイオナの声を聞いて、エースは思い出す。

6限目のHRの後、やけにイオナが深刻な表情をしていたために、勢いでそんなことを口走ってしまったことを。

「一応、案はあるんだけどね。でも、相手の反応もあるし…」

「相手?」

クラス単位で行う出し物だというのに、どうして個人の反応が重要なのだろうか。

疑問を感じたエースが首をかしげながら再びイオナへと目を向けたタイミングで、彼女の顔がグイッと近づいた。

息のかかる距離。
視界いっぱいのイオナ。

睫毛が長げぇな。
瞳も茶色し…

本来ならばもっと考えるべきことがあるのだろうが、今のエースにはこの状況を汲み取ることで精一杯。

夢の中での出来事が鮮明に甦りそうになるが、気合いでねじ伏せる。

なぜならここに、本物のイオナがいるのだから。幻想に振り回されている暇はないのだ。

エースがゴクリと生唾を飲み込んだところで、彼女は告げた。

「エースにお願いがあるの。」

「お、お願い?」

あぁ、やべぇ。

やべぇ、かわいい…。

俺、今なら死ねる。

二人きりの会話になってから、自分がほとんど疑問系のおうむ返しであることにエースは気がついていない。近い位置で放たれるイオナの声に、天にも昇る気持ちで息を呑む。

しかし、続けられた言葉によって、現実に引き戻された。

「執事カフェをやりたいの。それで、その、コスチュームを着て、接客してほしくって…」

執事?コスチューム?接客?

ポンポンと頭で弾ける単語。
理解しているのに飲み込めない。
なんだこの違和感は。

「えぇ?あっ?ぇーええ?」

混乱したエースは後ずさりながら、声をあげる。イオナはそんな彼に詰め寄った。

「大丈夫。いやらしい接客とかは考えてないから。それに…」

「いやらしいってなんだよ!」

「おかえりなさいませって、エースに言われたら嬉しいかなって。それに、きっと執事服が似合うから…」

どうにもイオナは折れる気はないらしい。困ったような顔をしながらも、淡々と説明してくれている。

ただ全校生徒の目に触れる可能性のある場所でコスプレなんて、どんな羞恥プレイなんだという話で。

「俺は、人前に出るのは…」

「それに、それに、執事のコスプレしたエース、絶対かっこいいよ?」

…!?

……!?

………ッ!!!

「かっこいい…?」

「うん。いつも以上にかっこよくみえると思うよ?」

イオナから繰り返される自分に向けた「かっこいい」という単語。それがこしょばゆく、嬉しくて仕方がない。

しかも「いつも以上」ときた。

普段からイオナは自分をかっこいいと評価してくれている。その事実が彼のやる気スイッチをプッシュした。

「だから、やってほしいなって。執事姿のエースがみたいなっ…」

「わかった!やってやるよ!」

食い気味に声をあげるエース。その顔は言わずともわかるほどに真っ赤だ。

イオナはそんな彼を前に一瞬目を丸くした後、徐々に表情をほころばせてゆく。

「ほ、ほんと?」

「あぁ。」

「ほんとのほんと?」

「あぁ。やるったらやるよ。」

あまりにもジッと爛々と輝かせた瞳で見つめられるものだから、照れ臭くなってしまう。

エースは、鼻の頭をポリポリと掻きながら視線を伏せる。しかし、イオナはおかまいなしだ。

「ありがとう!エースっ!」

やっとその返事を信用したのか、彼女はパッと明るい笑顔を浮かべ、エースの胸に飛び込んだ。

「ほんとに、ありがとう!」

その大胆すぎる行動にあっけに取られ、エースは呆然と立ち尽くす。

すげぇ、いい匂い…。
温けぇ。ってか、かわいい…。
やべぇ。鼻血でる…。

これをチャンスとばかりに彼女を抱きしめることも出来ただろうに、彼はそうできなかった。ただされるがままの一瞬にして永遠の時間。

「それじゃあ、よろしくね。」

「あ、あぁ。」

「じゃ、帰ろっか。」

「おうっ。」

ほんの2、3秒のハグ。

それによって芽吹いた幸福感は、確実にエースの中に刻み込まれた。

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