洞察力エースは呆れたように笑う。
彼の手には、イオナが通勤に使うバックが持たれている。イオナはそれを受け取り、大きく頭を下げた。
結局、オフィスに戻れなかったイオナは、そのまま早退してしまった。荷物も持たないで。
こんな経験は初めてで、彼女自身も戸惑った。けれど、電話越しに「荷物は後で届けるから。」と言う先輩の声があまりに優しくて、つい甘えてしまったのだ。
定時に仕事を終わらせたエースに、会社から一駅ほど離れたカフェへと呼び出された。
そこで手荷物を手渡されたイオナは、「本当にすみませんでした。」と改めて謝罪する。どうやらエースは走ってきたようで、額にはわずかに汗が滲んでいる。
「なにか頼まれますか?」
「あぁ。今は冷たいもんがいいな。」
「アイスコーヒーか、アイスティか…。あとはソフトドリンクみたいですけど。」
「コーラーは?」
「あります。」
「よし決めた。」
イオナと会話をしながらエースはコートを脱ぐ。そして、シワにならないようにそれを椅子にかけた。男らしさを省かない動作でありながら、仕草の一つ一つが雑でない。
思わず見とれてしまいほうになるのを堪えるために、イオナはメニューに集中する。
そんな彼女の気も知らないで、エースは椅子に腰をおろした。もちろんイオナの向かい側だ。
どうやらメニューを自分でみる気はないらしく、彼はお冷やを持って現れた店員に愛想のいい笑顔をむけた。
「いらっしゃいませ。ご注文は…」
タイミングよく現れた若い女の店員は、気の良さそうな表情を作る。声のトーンも少しだけ高く、媚びるようなニュアンスが感じ取れる。
先に来店したイオナにはそっけのない態度だったはずだ。エースがそうさせているのか、それともこの店員がそういった女なのか。
どちらにしてもイオナはいい気がしなかった。
先輩の代わりにコーラーを注文してしまいたい。
この一瞬のうちにそんな意地悪を思い付いてしまったのは、自分が今、惨めであることを理解しているからだろうか。
イオナはエースへと視線を向ける。彼の視線は店員ではなく、差し出されたばかりのおしぼりに向けられていた。それが温かいタイプのものであることに気がついたのか、彼は手に取ろうとはしない。
「んじゃ、アップルジュースひとつ。」
「かしこまりました。」
おもわず「え?」と言ってしまいそうになったイオナだったが、ここでそんな態度は取れない。目を丸くしてエースをみつめていると、彼は「ここのアップルジュース、旨いんだぞ。」と涼しい顔で言った。
どうやらこのカフェの常連らしい。
メニューを見なかった理由はそれだったのだ。
「昔な、よく彼女と来たんだよ。ここ。」
「そう、なんですか?」
「男一人で来るようなとこじゃないだろ?」
「……。」
イオナにはその基準がイマイチわからなかった。小物やインテリアに拘りがあるようには思えたけれど、だからといって男のお一人様が許されない空間のようには思えない。
返事に困ったイオナは、冷めたカフェオレの入ったコーヒーカップを口に運ぶ。
「あんま好きじゃない。」
「え?」
「こんな感じのいい店にカップルで来るなんて、なんか見せつけてるみたいだろ?」
「見せつけてる?」
「自分達はデートしてますよ。リア充っすよ。って。」
「リア充って…、普段から使われているんですか?」
「いや。今日が初めてだ。使い方、合ってるか?」
「たぶん。はい。大丈夫だと思います。」
突飛な言葉選びに思わず笑ってしまったけれど、先輩がそれに気を悪くした様子はない。軽薄さの薄いエースから「リア充」なんてどうしようもない単語が聞けたことが、新鮮でなにより違和感だった。
どうやら使った本人も馴染みのない単語に戸惑っている様子だ。
「俺はシャンクスさんと違って疎いからな。あの人みたいになんでもは吸収できない。若い奴の言葉も、やることも理解できない。」
「………。」
「イオナにはわかるか?」
「いえ…。」
若い奴という単語で、おもわずゾロを頭に思い浮かべてしまった。イオナは思考の中心に居座ろうとする後輩を勢いよく押しどかし、エースをみつめる。
そのタイミングでアップルジュースが運ばれてきた。紙のコースターがテーブルにのせられ、その上にグラスが置かれる。けれど、エースが店員に目を向けることはなかった。きっと彼の視界には入っていないのだ。
エースの表情は思い詰めているようにもみえるし、憤っている風でもある。もしかするとこれまでの会話は、イオナの緊張を解くためのものだったのかもしれない。いや、確実にそうに決まってる。
そう感じさせられる雰囲気の変化があった。
いたたまれなくなったイオナは視線を伏せる。怖くなってきた。今、優しい言葉をかけられれば、秘密にしておきたい感情すらも、ホロホロと熔けだしてしまいそうで、ただ怖い。
「なにがあった?」
店員がテーブルから離れた途端、エースはそう言った。明らかに、なにもしらない人の口ぶりではない。一体彼はどこまで知っているのだろうか。
イオナは顔をあげた。
「シャンクスさんとなにがあった?」
「…それは。」
「一人で抱え込む必要はない。」
「エースさん…」
真剣な眼差しに反する優しい物言いに、おもわず泣いてしまいそうになる。イオナは向けられた眼差しを見つめ返すことしかできなかった。
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