運命の着信女子トイレの個室。
シャンクスを振り払ったイオナが飛び込んだのは、やけに濃いシャボンの香りに包まれた女子トイレだった。
誰がこの芳香剤を用意しているのか。それ自体は悪くない香りなのに、その『濃さ』が全てを台無しにしている。小学校などにあった、あの強烈な匂いのものと比べればいくらかマシだけど、それでも強すぎることに変わりはない。
こんなトイレに長居していては、匂いが洋服に移ってしまうだろう。そうわかっているのに、いつまでも居座ってしまうのは、ここにしか逃げ場がなかったからだ。
今、自分が好意を寄せている相手がシャンクスであることは、間違いない。そうイオナは考えている。それなのに、ゾロにすがりたいと思っているのは、すでに傲慢なほどの執着を見せつけられているから。
求めれば、それ以上の熱を注ぎ込んでくれる。たとえ、それが一過性のものであったとしても、行為中はそんなこと考えもしないだろう。
ごちゃまぜにされた感情など霧散させてしまって、快楽に喘いでいればいい。それだけの刺激を彼は与えてくれる。
現実逃避だろうと、惰性だろうと、そんなものは関係ない。心は自分を必要としてくる、甘やかしてくれる存在を求めている。
会社で嫌なことや、辛いことがあるたびに励ましてくれた人。つまり、陽射しのように暖かな上司の代わりが必要なのだ。
そして、代替え品は簡単に見つかった。
それが当然であるかのように触れてくれた。
どうしようもなく落ち込んだ心を、引き上げてくれた。
素っ気なくされていた理由はわからない。けれど、先程の様子からして『使い捨てられた』訳じゃないのだろう。シャンクスの行動に嫉妬し、憤慨していた。「手を離せ」と唸るゾロの声を聞いただけで、ホッとしていた自分がいた。
(どうすればいいんだろ…)
今の精神状態では仕事に戻ることができない。戻ったところで、先程のようなことを繰り返してしまうだろう。
恋愛ごとで職務を放り出すだなんて、社会人として失格だ。失恋休暇といって同期が有給を消化したとき、冷めた目をしていたあの時の自分に戻りたい。
一ミリの希望も抱かずにいたあの頃に。
イオナは小さく鼻を啜る。散々煽られたせいか、それとも頻繁にかまわれたせいか。言葉ではそんなはずはないと否定しながら、心の底では期待していた。
もしかすればチャンスがあるかもしれない。と。
もともとなにかに期待することは少ない質だけれど、こればっかりは特別だった。だからこそ、叶わないとわかったところでこれほどまでに傷ついたのだ。
「エースさんのばか…」
思わず口をついたのは、期待させるようなことを吹き込んできた先輩に対する悪態。きっと本人にぶつけても「悪かったよ。」と素直に謝ってくれるだろう。
なにより、『俺がもらってやる。』とまで言って、背中を押してくれたくらいだ。責任を感じさせてしまうかもしれない。
イオナは下唇を噛む。唇の薄皮が剥げてしまいそうなほどに、強く噛み締める。
どうしようもない恋愛を積極的に応援してくれていた相手を脳内でとはいえ、責めてしまった自分が腹立たしい。
こんなだから、自分はダメなんだ。
根暗で陰気臭くて、すぐに誰かのせいにしてしまうほど心が弱いから─。
自分を否定する言葉なら次々に沸いてくる。もういっそ、仕事を辞めてしまおうか。やってみたかった職種でもないのだから問題はない。
もとより、やりたい職種などないのだから、新しい仕事が見つかるとも思えないが。
この歳になって逃げの姿勢で居続けることに対する情けなさに、涙が込み上げてきたタイミングで、ブルルルルと、タイトスカートのポケットが震えた。
(誰、だろう…)
この着信は通話によるものだ。イオナは指先で目元を軽く拭った後、ポケットに手を突っ込む。
心臓の鼓動が加速する。無意識に指先が震えた。
どうしてこんなにドキドキするのか。
この着信が、運命を左右することを悟っているかのような身体の反応。イオナは震え続けるスマホをぎゅっと握りしめた。
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