苦悩と牽制ゾロに素っ気なくされている今に納得がいかない。けれど、それを主張できるほどの関係なのかと言われれば微妙だ。
このままうやむやにしてしまおうとは思わない。それでも一歩を踏み出す勇気はない。出社してからも、ゾロの冷たい態度は続いており、業務的な会話しかしてもらえていない。
突き放されるほどに意識がそちらに流れ、イオナは仕事に集中しきれないでいた。
「おい、聞いてるのか?」
「え?あ、はい。すみません。」
「聞いてなかったんだろ?」
先輩であるエースが呆れたように笑いかけてくれる。
新しい仕事を教えてもらっている最中に、ぼんやりしてしまうなんて最低だ。すぐにでも謝罪しなくてはならないとわかっていながらも、温かな眼差しを前に言葉を見つけられない。
それどころか、目頭が熱くなってしまった。
「おい、どうした?」
「いえ、別。」
「でも…」
このままじゃいけない。そうわかっているのに身体は正直だった。イオナは「すみません」とだけ呟き、踵を返す。
仕事中に、先輩を困惑させるような真似をしている自分が情けない。プライベートと仕事を混同してしまっている自分の心の弱さに嫌になる。
けれど、あんなことがあったのに平然としているゾロのことが不満で仕方なかった。それ以上に、意識し、緊張までしていた自分が惨めで悲しかった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。もっと自分は真面目に、真っ直ぐに生きてきたはずだ。こんな結末に陥るような不届きな真似はしてこなかったはずだ。
たぶん、そんなことはしていなくて──
自分の行動にどんどん自信がなくなってくる。交差する脚をどんどん速めても、心が休まることはなく…
トイレに向かう廊下を駆け抜けていたところで、正面から誰かに肩を押さえられた。強引に押しきることもできないほどに強く肩を握られ、思わず顔をあげてしまう。
「シャンクスさん…」
「イオナ。こんなとこでどうした?」
「それは…」
シャンクスさんが女の子と肩を並べて歩いてたの見てショックで、なんとなくゾロくんとエッチしたんですけど、今朝になったら急に冷たくなったんです。どうしたらいいんですか?
気持ちを要約すればこういうことなのかもしれない。けれど、そんなこと、口が裂けても言える訳がなく、イオナは押し黙る。
「黙ってちゃわからねぇだろ?溜め込んだって良いことはねぇんだ。おじさんに話してみなさい。」
「…………ッ。」
「イオナ?」
いつもと変わらない優しさに、すべてを忘れてほだされそうになる。けれど、いつもとは異なる香りに現実に引き戻された。
「柔軟剤…」
「ん?」
「柔軟剤の匂いが。」
そこまで口にしてはっと気がついた。以前、エースが言っていたのだ。シャンクスは全てをクリーニング屋に委託していると。
そんな彼から柔軟剤の香りがするということは、つまり、洗濯してくれる誰かが傍にいるということなのだろう。
イオナは顔を伏せる。
全く見知らぬ行きずりの男ならまだしも、同じ職場の後輩と寝てしまった以上、もう後戻りはできない。それについては充分に理解しているつもりだ。
けれど、心が弱っている時に『異性の存在』を念押されると精神的にキツい。
それでなくても苦しかった胸が強く絞られる。肺に酸素が行き渡っていないのではないかと疑いたくなるほどの息苦しさを覚えたところで、大袈裟な足音が背後から聞こえてきた。
「おい。 」
追いかけてくるならエースだろうと思っていた。けれど、聞こえたのはゾロの声。イオナは振り返ることもできず、身を強ばらせる。
「手ぇ離せよ。」
「上司に向かってなんて口の聞き方してんだ、お前。」
「いいから、離れろ。」
淡々とした口調から伝わってくる苛立ち。それはどちらにも言えることで、牽制しあっているように思えた。
イオナが再び顔をあげると、シャンクスはこれまでにみたこともないほどに鋭い目をしていた。穏和な上司とは思えない、強い怒り。それを、真っ直ぐにゾロに向けている。
「ゾロ。お前が泣かせたんだろ。」
「知るかよ。」
「は?」
「エースさんと話してたと思ったら、急に飛び出してったから…」
歯切れの悪くなったゾロに対して、シャンクスは疑わしげな目を向ける。
目を細めた表情が妙に色っぽくみえるのはどうしてだろう。
状況に似つかわしくないことを考えてしまっている自分にモヤモヤしながら、イオナは振り返ろうとする。けれど、抱き寄せられる形でそれを阻止されてしまった。
「おいっ!」
「なんだ?」
「だから離せって!!!」
声を荒げる部下を前に、シャンクスは相変わらず堂々としていた。なにも知らない状態で、このシチュエーションを経験できたなら、きっとキュン死にできたかもしれない。
けれど、この柔軟剤の香りを嗅ぎながらでは、傷を抉られた上でなぶり殺されているも同然だ。
イオナは腕の力いっぱいにシャンクスの胸板を押す。拒まれるとは思っていなかったのか、抱き止める腕の力はそれほど強いものでなく、簡単に離れることができた。
「すみません。」
イオナは上司に向かって大きく頭を下げる。そして、元々の目的であった女子トイレへと足を進める。
突然走り出したせいか、シャンクスはおろか、ゾロも呼び止めてはこなかった。
ふと、ゾロの胸に飛び込みたいと思ってしまった自分はなんなんだろう。また慰めてほしいと思ってしまった自分は──。
こんがらがった頭の中で、何を考えられるというのだろう。トイレの個室に飛び込んだ頃には、涙が頬を伝っていた。
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