triangle | ナノ

疑心暗鬼

帰宅後。コートを脱ぐことも忘れて、玄関でへたりこんだイオナは、長かった一日を思い返す。

心細さを煽る不安に、激しい動揺。失恋で壊れたはずの心を包む、熱すぎる体温。感じたことのないほどの羞恥と愉悦は、その心に関係なく理性の箍(たが)をあっさりと打ち砕いてしまった。

「すごかった…」

その熱量を思い出すほどにジンと痺れる下腹部。
鼓膜から身体の芯を震わせたかすれ声に、肌をなぞるザラザラとした舌の感覚。穿たれる圧迫感の硬さと、脳みそを揺さぶる強い刺激。

その全てを思い出しただけで、また粘膜が焼け始める。心がほかほかと満たされる。これまで1度も覚えたことのない不思議な感覚が沸き上がり、尖った感情が静かに霧散していく。

昨晩、経験したばかりの失恋のダメージなど、すっかり忘れてしまっていた。一途な恋よりもずっと刺激の強い『行為』に、身体はおろか、心までもが流される。

「ゾロくん…」

さっき離れたばかりなのに、逢いたくて仕方ない。あれだけ強く想いを伝えられたはずなのに、体温を感じられないことを心細く感じてしまっていた。

…………………………………………………………

月曜の朝。

いつも通り、ゾロの家へと向かうイオナは一抹の不満を抱えていた。

(まさか、女の子は…いない、よね?)

数日前に目撃した、彼の扇情的なキスシーン。それが夢に出てきた瞬間に、「嫌だ!」と叫んで跳ね起きてしまった。

実際に目撃したときはただムッとした程度の感覚だったのを思えば、あの頃よりずっとゾロに対しての気持ちが強くなっているということなのかもしれない。

けれど、現実問題、自分が彼を縛れる立場なのかと聞かれれば、ずいぶんと微妙だった。

(私だって、まだ…)

─片想いを引きずっている。

たった二日やそこらで忘れられるほど、あれは簡単な気持ちではなかった。

憧れだった上司に抱いていたのは、ただの恋慕だけではない。上司部下としての自然な感情。敬愛や親しみは日に日に増していたし、なにより冴えない自分を励まし、評価し続けてくれていた尊敬の対象。

強い刺激による『思い出の霧散』は、一過性のものであって"想いを無かったことに出来る"までの効力はない。

それをこの土日で思い知った以上、イオナはいろいろとわきまえていた。わきまえているからこそ、足取りがおもたくなった。

(ゾロが誰かを抱いていたとしても、文句は言えない。言っちゃいけないんだ…。私は何も…)

良識ある人間なら、あれだけの愛を囁いた後に、他の女など抱けるはずがない。けれど、今の状態は良識に当てはめて考えられるほど、『まとも』とは思えなかった。

「おはよう。」

どのくらい前からそこにいたのだろうか。ゾロは門より少し手前の位置で、壁に背中を預けて待っていた。まだ眠たいのか、瞼は重たげで、それでもくっきりと眉間にシワが寄っている。

その横顔を前にしただけで胸がキュッと絞られる。衝動的に抱きついてしまいたいと思ったけれど、そうできるほど大胆な性格ではない。

平然を装って挨拶の声をかけると、彼はチラリとこちらへ視線を寄越し、「おう。」と短く返事した。

「いこっか。」

「……。」

無言で歩き始めるゾロ。イオナには一切の関心がないのか、見向きもしない。

素っ気ない態度に胸を抉られながらも、なんとか平常心であろうとする。そうするが故に、普段がどんな風だったかを思い出せない。

「今日も寒いね。」

「だな。」

「どれくらい待ってたの?」

「別に。」

気まずさからくる緊張と不安で、つい口数が多くなってしまう。短い返事が普段よりずっと素っ気ないもののように思えて、余計に話しかけてしまう。

完全に空回りしている自分に気がつきながら、態度を改めることができない。不穏な空気をさらに掻き乱しながら、イオナは焦燥感を募らせる。

「やっぱ寒いね。」

「さっきも聞いた。」

「あ、そうだったよね。」

ゾロの大股早歩きに合わせるには、小走りになるしかない。ヒールのないパンプスに圧迫された小指が、繰り返される摩擦で痛みを訴える。コートの中、肌はじっとりと汗をにじませ始めていた。

もしかしたらゾロくんは、ただヤりたかっただけなのかもしれない。だから、もう私には興味も、関心もなくて…

「酔ってるの?」なんて聞いて混ぜっ返してしまった部分はあるけれど、好きだと言われたことは心の底から嬉しかった。

慈しむみたいにギュッとされて、たくさん名前を呼ばれて、独占欲を主張されて…。

その全てが夢だったんじゃないかと思ってしまう。失恋に傷ついた心を癒すために、幻をみていただけなのではないかと。

「ゾロくん…」

足早に前進する人の背 中を追いかけることが、こんなに辛いことだなんて思ってもいなかった。こんな扱いをされても、なにも言えない自分に情けなくなった。

火照る身体に反して、心はずっと凍えてしまいそうだった。

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