悲恋と妥協数時間前。
barを出たところで、タクシーを拾うんだろうと思っていた。道を覚えられない体質の彼が、酔っぱらいを連れて、夜道をうかうか出歩くような真似はしないと。
イオナは手を引かれるままにゾロと店を後にして、フワフワする足元に違和感を覚えながらしばらく歩いた。
ゾロの手は大きくてゴツゴツしていた。指は節がしっかりしていて、一度指を絡めて手を握られると離れてくれそうにない。
手のひらは冷え症のイオナのそれよりずっと熱くて、冬だというのにちょっぴり汗ばんでいる。転けそうになった拍子にギュッと握ると、さらに握り返して身体を引き寄せてくれた。
自分よりずっと子供っぽいと思っていた相手。
その人の背中は思っていたよりずっと大きい。
目線より、遥かに高い位置にあるうなじをポーッと見つめながら、イオナはふわりふわりと足を進める。
頭の中を巡るのはこれまでの記憶の数々。
ゾロに纏わるものであろうとなかろうと、ただ事務的に、転々といろいろな映像が意識の中を明滅する。
走馬灯というほど、焦燥感に満ちたものじゃない。
順序だてて記憶を整理していくような感覚。
嬉しい気持ちも、涙した記憶も、照れ臭かった思い出も。すべてが平等に意識の中でチカチカする。
頬を刺す冷たい風。それ以上に温い手のひら。
引っ張られる感覚すらもなんとなく心地いい。
フワフワとした、夢でもみているような感覚。
このまま記憶の渦の中をさ迷っていたいとすら思っていたイオナだったが、ふと浮かび上がったシャンクスに纏わる記憶のせいで理性を取り戻してしまう。
自分は何をしてるんだろう。
どうして足元がフワフワしてるんだろう。
なんで…。
そうか、失恋したんだ。
失恋したからゾロくんと飲んで、ゾロくんとキスして、手を引かれてて──
現状確認が淡々と進むなか、ゾロがイオナを連れ込んだのは見た目だけはやけに立派なラブホテルだった。
エントランスの奥へ向かうと、部屋の写真がいくつも並んでいた。それ自体がボタンとなっているようで、一度押されたらしいそれは、他のに比べて写真が暗い。
ボタンの下にはフリータイムと宿泊の料金が記載されていて、赤いランプがついているものは清掃中とのことらしい。
イオナにとって、それは見慣れない光景。
ゾロを見上げると「どれがいい?」と素っ気なく訊ねられた。おもわず一番低価格の部屋を指差してしまう。ゾロはイオナの手に自身の手を重ねると、それより2、3ランクの高い部屋のボタンを押した。
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長い廊下を進むと、一つだけランプが点滅しているドアがあった。どうにもそれが誘導のランプらしく、ゾロは迷いも、躊躇いもなくズカズカと足を進める。
頼もしいと思う反面、利用に慣れている風な彼の振るまいに戸惑ってしまう。片想いからの失恋程度のことに傷つき、キスすらまともにできなかった自分に、ベッドの上でなにが出来ると言うのだろう。
イオナはおもわず足を止める。彼女を引っ張っていたゾロもまた立ち止まった。
「私、不器用だから。」
「は?」
「下手くそだから…」
「関係ねェって。」
「でも…。私、抱いてもつまんない女だよ。」
自分でもおかしなことを言っているなと思う。ここまできて、何を言っているんだろうと。頭は冷静なのに、唇は思っていることを言葉にしてくれない。
ずいぶんと不安げな顔をしてしまっていたに違いない。ゾロは一瞬、心配げな顔をした。
「理由はそれだけか?」
「うん…」
「だったら、安心しろ。相手は俺だぞ。」
「え?」
ポカンとしているうちに腕を引かれる。半ば強引に腕を引かれて、その勢いのままに部屋に引きずり込まれる。
ドアがバタンと閉まると同時、身体は壁際に追いやられていた。
「そんなの男次第だろ。」
「………でも。」
「黙れ、イオナ。」
低く唸るような声。鼓膜を揺らす緊張感。
身を屈めたゾロに、顔を下から覗きこまれ視線の逃げ道がない。
追い込まれたことで更にバクバクする心臓と、一歩を踏み出せない臆病な心根。
いっそ流されてしまえば諦めはつくかもしれない。けれど、周囲に背中を押されていた恋愛すら成就させられない屑に、なにが出来るというんだろう。
真剣な瞳を見つめ返しているのに、頭を埋め尽くすのは女性と腕を組んで歩く、シャンクスのあの後ろ姿。
強気な彼の表情が涙で滲んでも、記憶に焼き付いたその光景は一向に消えてはくれない。
頭がパンクしそうだ。心が壊れてしまいそうだ。なにもかもに嫌気が差して、それでもなにかにすがっていたいと心は訴えていて。
声をあげて泣いてしまいたかった。
助けてと口にしたかった。
想いを煽られるようなことを言われてなければ、ここまで傷つかなくて済んだのに。酷い劣等感に打ちのめされなくても──
奥歯をグッと噛んだイオナの唇に、一瞬だけ 温もりが触れる。ただ唇を重ねるだけの浅い口づけは、彼女を意識の深い沼から呼び戻した。
大きな手のひらに両方の頬が包み込みこまれる。弱った心に染みる温もりに、涙腺は1滴の涙が溢れるのを許してしまう。
ゾロはイオナの頬を滴った雫を親指で撫でると、白い歯を見せて笑った。
「こんな時ぐれェ、ちゃんと俺をみてくれよ。」
普段見せるシニカルなものとは異なる、哀愁を感じさせる笑み。そんな表情をする理由がわからず、ぼんやりするイオナに、彼は追い討ちをかける。
「好きだ、イオナ。」
「…っ!」
答えを聞くつもりはなかったらしい。 驚きで息を飲んだ拍子に、唇を奪われた。頬を押さえられているため、逃げようにも逃げられない。
何度も角度を変えながら、舌を弄ばれる。不器用で動きの固いイオナの舌は、ゾ口のそれにはかなわない。舌同士のザラザラした感触は嫌いじゃなかった。
腔を瞬く間に蹂躙され、腰が抜けそうになる。
イオナは両の腕をゾロの首に絡めた。
口づけはさらに深く、荒々しくなった。
「イオナ…。」
もう引き返せない。止まれない。
それでも今はすがるしかない。
「ゾロくん…。」
荒々しく続けられる口づけの合間、何度もその名を口にした。けれど、不思議と違和感は覚えなかった。
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