改札口 額にキスなんて真似をして、平気でいられる方がどうかしている。イオナはいつもよりずっと早足で、ゾロの少し前をズンズンと歩く。
その振舞いが子供っぽいことは充分に理解していたけれど、平然としていられるほど卓越した精神は持ち合わせていなかった。
顔は熱いし、動悸は酷い。
触れた湿っぽさを忘れようと思うほどに、触れられた部分がジンジンと疼き、さらに強く意識する結果となってしまう。
「そんなむくれんなよ。」
「…っ、うるさいっ!」
「なぁ。イオナ。」
ずいぶんと余裕のあるらしいゾロは、あえて歩調を緩くしているようにみえる。ときどき追い付いてきては、からかいの口調で話しかけてきた。
その都度強気で言い返すけれど、どうしても迫力に欠けてしまう。そのせいで更にからかわれたり。嘲笑されたり。
なにより、一番腹が立ったのは趣味の悪い嫌がらせを、心底嫌に思えない自分に対して。どれだけプンスカしてみせたところで、心の底から嫌がっていないことは見透かされているに違いない。
「なぁ。あっこにカフェ出来てんぞ。」
「行かない。」
「でも…、んっ?」
言葉の途中、唐突にゾロが黙り込んだ。どうしたのだろうかと振り返ってみると、彼はグッと眉間にシワを寄せ、一点を睨み付けていた。
「どうしたの?ゾロく、ん…?」
数歩分後ろに戻り、視線の先へと目を向ける。そこに見えたのは、人混みの中を進む赤い頭。サラサラと揺れる髪質が、誰のものであるのか見間違えるはずもなく、イオナはついつい見惚ってしまう。
「おい、行くぞ。」
「え、ちょっとま…」
ぐいと腕を引かれる。その強引な力に引きずられる寸前、一歩を踏み出す寸前に目に入ってしまった。
「うそ… 」
シャンクスの隣を歩く女性がいることに。
その女性が彼の腕に自身の細腕を絡ませていることに。
「…見えたのか?」
「うん。」
「………くそっ。」
呆然とするイオナに恐る恐る声をかけたゾロは、その表情を険しいものにする。小さくついた悪態は、あからさまな態度を取ってしまった自分に対してだろう。
泣き出すわけでもなく、シュンッとするわけでもなく、ただぼんやりと二人の背中を視線で追い続けるイオナ。
人の波はシャンクスとその女性をあっさりと飲み込んでしまう。二人の姿はもう見えない。それでもイオナはただひたすらに、一点を見つめ続けた。
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暗い店内を漂うブルーの照明は深海を思わせる。
10名ほどが掛けられるカウンターと、四人がけのボックス席が2つ。バラード調の邦楽が流れるbarのその奥、VIPルームにてイオナは飲んだくれていた。
「意味がわからないよ。」
「もう諦めろよ。」
「諦めるもなにも横恋慕じゃない。」
「…………………。」
飲みに行こうぜと誘うと、コクりと頷いた。カフェすら断っていたのに、すんなりと同意したイオナを心配したゾロは、自身の友人が店長を勤めるbarに連れ込んだ。
最初こそ、無言でアルコールを接種し続けていたイオナだったが、さほど酒に強くもなかったのか、酔いが回るほどにゾロの問いかけに答えるようになっていった。
「ここの酒、上手いだろ。」
「ごめん、気にしてなかった。」
「お前なァ…」
「私のが、 先輩なのに、お前とか。」
向かい側に座ったイオナが身を乗り出した。テーブルに乗っていた皿の類いがガシャン音を立てるけれど、彼女がそれを気にする様子はない。
「この場合のお前ってあれだろ。愛情込めてるつーか、親しみの籠ったって感じの。別に見下してる訳じゃねぇっての。」
「そうなんだ。愛情。ふーん。愛情…」
「ひっかかったのはそこかよ。」
「どうせゾロくんも、私に気のあるフリしながら、他の子とエッチして、チューして。私のこと嘲笑ってるんでしょ?」
「……。」
「たいして可愛くないってことも、美人じゃないってことも自覚してる。私なんて中の下の下だよ。そうやって自覚してるからこそ、褒められたら嬉しいのに…。なんでっ、そんな風に…」
「イオナ、飲み過ぎだろ。」
「明日は休みだし、別に死なない。」
「仕事だったら死んでんのかよ。」
自分も同じくらい酔えたら楽なのだろうか。ゾロはそんな風に思いながら、イオナが飲むものよりずっとアルコール濃度の高い酒をぐいぐいと煽る。
別な男を想いながら、瞳を涙ぐませる女。
どうでもいい相手なら、適当に慰めて、ホテルに連れ込んでしまえばいい。気のあるフリをして、適当にたらしこんでおけば便利な女の出来上がりだ。
けれど、相手はそんな簡単な存在じゃない。
どうでもいい女な訳がなかった。
「もうやめとけ。送ってくから。」
「送り狼。」
「はぁ?」
「たらしこめばいいじゃない。どっかの処理女みたいに、私のことだって…」
自分でも何を言っているのか理解していないのだろう。それでいて、自身の価値を貶めていることだけは理解しているように見えた。
それ以上を言わせたくなくて、イオナの顎に手を添える。 そのままひょいと持ち上げてやると、案の定、無意義な言葉を紡ぐのをやめ、唇を閉じた。
とろんとした目。それでいて、涙で滲んだ瞳で見つめられ、理性のタカが外れそうになる。
けれど、ここで安易に手を出したら、それこそイオナが言っていた通りになってしまう。そこにある感情がそうでなかったとしても、イオナはそう捉えるだろう。
これまで奔放にさせすぎていた本能の部分を自制心で抑え込む。ついさっきだってそう出来たのだから、今回だってなんとかなるはすだ。
額にキスなんてキザな真似をした自分を恥ずかしく思った。けれど、それ以上に、嫌な顔をされなかったことを素直に喜べた。
自分にそんな純情さが残っていたことにむず痒さを覚えながらも、なんとか上手くやりたいと思ったのだが──
その理性の砦をイオナの一言が崩壊させた。
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