ぐらりゾロが余計なことさえしなければ、仕事はサクサク進められる。イオナは会社の最寄り駅まで向かいながら、滞りなく仕事を進行させられた自分を褒める。
エースのお節介のおかげで、グダグダになりかけたけれど、それでも社会人。多少手こずりはしたけれど、なんとか気持ちを切り替えることができた。
定時より少しだけの残業を済ませたイオナは、数歩先を歩くゾロを小走りで追いかける。
「ゾロくんってさ、こないだ、キスしてたみたいな娘がタイプなの?」
「んだよ、急に。」
「なんとなく気になったから。」
「別に。」
「へ?」
「タイプでも何でもねェけど。」
ゾロがわずかに歩調を弱めてくれたことで、小走りしなくても済むようになる。レディファーストを心得ているエースやシャンクスさんとは異なり、『俺についてこい』タイプのゾロは基本的に女性に合わせるということをしない。
家庭環境のせいか、社会経験の乏しさか。
どちらにしても、レディファーストを欲していないほっしていないイオナにとってはそれが不満になることはなかった。
後輩の一歩後ろを歩きながら、そのうなじに向かって言葉を投げる。
「じゃあなんで、へ、部屋に泊めたり…するの?」
言葉にするだけで気恥ずかしい。とでも言いたげな口調なってしまう。ぎこちなく、所々を早口にしながらの問いかけは、ちゃんと彼に届いていた。
「ヤりてぇ時にヤらしてくれるから。」
「へ!?」
「好きな女とやるのと、溜まってんもん出すのとはまた別だろ。」
「…っ!!」
ゾロは当然のことのように言うけれど、普通に考えればそれは刺激的過ぎる台詞だった。イオナは歩み止める。その気配に気がついたゾロも数歩前進したのちに足を止め、振り返る。
顔を真っ赤にして息を呑んだ先輩をみて、ゾロは白い歯をみせた。
「俺だって誰にでも股開くような女と結婚してぇとは思わねぇよ。貞操観念がちゃんとしてねてぇ女なんて嫁にしたら、ガキが出来ても、誰の子かわかんねぇだろ。」
「結婚してるなら、きっと君の子だよ。」
「さァ?どうだかね。」
「信用できない人とそういうことができるゾロくんがわかんない。」
自嘲めいた笑みを浮かべ、肩を竦めたゾロからイオナは顔をフンッと背ける。
別に彼が誰とどんなことをしていようと自分には関係ない。頭ではわかっているのに、無意識のうち不満が態度に出てしまう。
たくさんの女性に嘘の愛の言葉を吐いていたところで、性欲のためだけに抱き締めていたところで、それに干渉する権限なんてない。
関わらなければ被害は被らないのだから、偏見を持つ必要も、軽蔑する必要もなかった。なかったはずなのに──
なにがきっかけなのか、心に充満するモヤモヤで感情のコントロールが効かない。イオナは鬱憤を誤魔化したいあまりにスタスタと歩き始める。
結果、ゾロとすれ違う結果となった。
「セックスに信用なんて必要か?」
隣を通り抜けようとしたところで、ポンと投げ掛けられる言葉。人通りの少ない路地とは言え、セックスなんて単語を野外で聞かされるとは思わなかった。
中途半端に明るい街灯のせいで、互いの表情が見えてしまい、更に恥ずかしい。思わず足を止め、ゾロに食ってかかってしまう。
「は、裸見られるのに!誰でもいいなんて…」
セックスは裸を見られるだけじゃない。なにもかもをさらけ出す行為だ。過去の恋愛における苦々しい経験を思い出し、イオナは泣きそうになる。
もしかしたら、そうして"すべてを割り切れる"ことを羨ましいと思ってしまったのかもしれない。そうできない自分を悔しく思ったのかもしれない。
もっと器用に生きられたら、もっと駆け引き上手になれたなら。こんな格好のつかない人生には─
「そんな真っ当に生きてんなら、俺のガキ産んでくれよ。」
唐突に投げ掛けられた台詞に絶句する。
真剣な顔でなんてことを言うんだろう。普段の人を食ったような印象は一切ない、切実とも取れる物言い。
簡単に言えばゾロらしくない表情と声色。
エースさんといい、ゾロくんといい。いったいどうしてしまったんだろう。それでなくてもいっぱいいっぱいだったイオナの頭の中は、ごった返す。
「な、なんで!ってか、……バカじゃないの!?」
「プッ。そんな照れなくてもいいだろ。」
「て、照れてない!そんなんじゃないからっ。」
ゾロの表情が元に戻った。いつも通りの、相手をからかうようなニヒルな笑みに。イオナはバックでバンバンとゾロを叩く。
「お、おかしい。今日は、エースさんもゾロくんもおかしい。どうかしてるっ!」
「─、エースさん?」
「なんで?何で私なんか…。私なんて─」
励ましのつもりだろうが、応援のつもりだろうが、自信のない人間に『かわいい』なんて言えば、それは謙遜しか生まないのかもしれない。
その時は嬉しかった言葉も、時間が経つほどにネガティブな感情を煽る単語となる。
これまで自覚していた以上に自分が惨めな存在なように思えてきた。込み上げてくる感情が言葉では言い表せないほど複雑で、イオナの頭は混乱する。
ゴタゴタの頭の中。感情の濁流に飲まれた彼女の肩を、ゾロがトンっと押す。押し剥がされるように壁際に追いやられたイオナは、ハッとした。
「ごめん、私…」
硬い革のバックで叩かれて痛くない訳がない。バックを身体の前で抱き締め、ペコリと頭を下げるイオナに、ゾロは一歩詰め寄った。
「で、エースさんになんて言われたって。」
「へ?」
「今、自分でなんか言ってたろ。もうボケたのかよ。」
「違ッ、そうじゃなくて…。ってか、近い。」
ぐいと顔を寄せられ、鼻先がぶつかりそうになる。慌てて視線を伏せるけれど、ゾロはその体勢を崩すつもりはないらしい。
トンっと顔の横に手をつかれ、逃げ道を塞がれる。
「イオナ。」
「だから、近い…。」
「ちゃんと答えろ。」
「別に。ただ、いろいろと…」
「そのいろいろがなんなのか答えろ。」
苛立ちの込められた声音に背筋が凍る。そのくせ、至近距離で顔を見つめられ頬がホッホッと火照った。
「なんで、ゾロくんに言わなきゃ…」
「イオナ。」
心の側面を撫でるような甘い響き。慣れない猫なで声に、イオナは堅く瞼を閉じる。
鼻先を掠める呼気。吐き出される温もりが、これまでにない接近を意味している。この先になにがあるのかなんて、考えなくても理解できた。
眉間にグッと力を込める。
(キスされる…)
拒むこともなく覚悟を決めたイオナ。
温もりが触れたのは唇。ではなく、額だった。
「え?」
思わず目を真ん丸くしてしまう。
その1秒後に視界に戻ってきたゾロは、フッと笑った。
なんでと問いかけかけて、口を紡ぐ。
「期待してたのかよ。」
「そ、そんなんじゃ…」
「へぇ。」
図星をつかれて照れ臭い。どういう訳か、ゾロは少しだけ嬉しそうで、白い歯はいつもより輝いて見える。
あまりの気恥ずかしさにイオナは視線を伏せた。
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