triangle | ナノ

駆け引き

「その人、何?」

「いや、別に…」

歯切れ悪く答える後輩に、イオナは冷めた目を向ける。彼の隣に立っているチャラチャラした雰囲気の女は「ねぇ、ゾロ?」と甘えた声をあげ、身体をクネクネさせたが、そちらには見向きもしない。

「もう迎えはいらないってことかな?」

「んなこと言ってないだろ。」

「じゃあ、なにこれ。」

「これは…」

「金輪際こういうのはやめて。」

イオナはきっぱり言い切った。

こういうの呼ばわりされた女は納得のいかない顔をするが、彼女の有無を言わせぬオーラに押し黙る。

ゾロもまた、小さな舌打ちこそしたものの、イオナには逆らえないと思ったのか、猫を追い払うように「もう帰れよ。」と素っ気なくその女にいい放った。

あのキス寸止め騒動から1ヶ月。

イオナとゾロの間には、なんともいえないぎこちない空気が漂っている。感情を素直に表現するのが苦手な者同士、譲れないものがあるのだろう。

そしてこの日もまた、こうして衝突していた。

女はゾロに邪険にされたことに腹を立てたのか、ブーツのヒールでコンクリートをカツカツと蹴り、イオナに歩み寄る。

そして、すれ違い際に思いきり肩をぶつけた。

覚悟していた以上の衝撃に、思わずよろけるイオナ。そんな彼女を支えようと、ゾロは反射的に手を伸ばすがあっさりと振り払われてしまう。

遠退いていくヒール音。

イオナは更に鋭い目でゾロを睨み付ける。

「なんだよ。」

「別に。」

あからさまな膨れっ面でそっぽを向いた教育係に対して、ゾロは困ったように小さく舌打ちをした。
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数分前。

普段通り、出社時刻よりも早い時間の電車に乗ったイオナは、いつも通り会社最寄り駅ではない駅で途中下車する。

歩き慣れた道のり。普通に生きていれば通ることなどなかっであろうその道を、ズンズンと進む。

昨日のゾロは屋敷からなかなか出てこなかった。理由は夜更かしが原因の朝寝坊。何度もスマホに電話をかけたが、その都度ガチャ切りされてしまい、最終的には電源を落とされた。

ここのままでは遅刻してしまうと思い、玄関のチャイムを鳴らすと、ゾロの姉と名乗る黒髪美人が顔を出し、彼を起こしに向かってくれた。

どうみても彼には似ていない姉の容姿にその場では惚けてしまったが、後から聞いた話によると母親が違うらしい。

姉についてはあまり詳しく話したくないようだったので、イオナも土足で踏み込むような真似はしなかった。

普段から気難しい顔をしていることの多い彼だか、家族の話となると更に表情が険しくなる。その表情からは嫌悪とか、憎悪とか、そういった濁りのある感情すら感じられ、他人であるイオナからみても、複雑な環境で育ったことは言われなくても明白だった。

イオナもまたそれなりに"毒のある親の元"で育っているのだか、本人にはまったく自覚がないために、そのすべては他人事でしかない。

気休めの言葉も慰みの言葉も浮かびはしなかったし、同情のような感情も覚えなかった。

今日はちゃんと起きているだろうか。

昨晩は早く寝ると約束したし、30分前にモーニングコールまでしておいた。寝ぼけた声ではあったが、電話に出てくれたことに安心したのは言うまでもない。二度寝してなければいいけれど、もししていたらどんな罰を与えればいいのだろう。

「お前は指導者に向いてない。後輩に甘すぎる」と、ゾロが迷惑をかけた他部署の社員に怒られたばかりであるのもあり、イオナは更に難しく考えていたのだが。

対する、後輩はなにも考えていなかったらしい。

「朝からなにやってるの?」

門まで近づいたイオナが目にしたのは、どこかの女とキスする後輩の姿。思わず低い声が漏れた。

どちからと言えば女の方が積極的なようにみえるが、それでも拒んでいない彼にも問題はある。とうより、ここでこうしてキスしているということは、この女と朝まで一緒にいたということだろう。

寝坊した翌日にいったい何をやっているんだ… 。

情けないやら、腹立たしいやら、表現しようのない感情が沸き立って仕方ない。

前の彼女と別れてからまだ1ヶ月やそこらじゃないか。キスをねだってから1ヶ月しか経っていないじゃないか。

それなのに、すでに深い関係になっている女がいるなんて"軽すぎる"んじゃないか。仕事も覚えないで女にうつつを抜かしているなんて…

言いたいことはたくさんある。

けれど上手く言葉が選べない。

どうしようもなくモヤモヤする。

不満だらけで苛立ちばかりが先走り、冷たい風に頬を撫でられるほどに体温の上昇を思い知らされる。

ゾロくんの馬鹿!なんで、なんで、なんで…

頭の中で繰り返される、低レベルな悪態。これじゃまるでヤキモチを妬いているみたいじゃないかと更に情けなくなった。

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第三者の登場にめげることなくキスをせがむ女を押し剥がしながら、ゾロはイオナのその怒気の滲む表情を盗み見る。

この1ヶ月、平行線だった関係。

なんとか距離を詰めたいと考えた彼は、あえてイオナに"見せつけて"みることにした。

ヤキモチを妬いてやくれないだろうか。もう少し俺を気にかけてはくれないだろうか。と。

まるで母親の気を引きたい子供がするように、ゾロはあえてイオナが嫌がる、怒ることをやってみた。

結果は明白だ。

「その人、何。」

イオナの声から滲むのは、怒りではない。ヤキモチでもない。完璧な『軽蔑』だ。

「いや、別に…。」

上手くいかなかった。それどころか、あからさまに更に嫌われてしまった。本当に上手くいかない。

いっそ、アイツと付き合ってくれりゃ…

不器用で鈍感で真面目で、挙げ句に融通がきかない。恋愛に不向きとしか言い様のない教育係をみていると、焦れったくて仕方がない。

その感情が自分に向けられることはないと理解している。イオナはあの上司が好きなのだ。頭の回転が早くて、見た目もよくて、器もでかくて、仕事も出来る…。なんでも"溢れるほど持っている"あの男が好きなのだ。

そんな奴に叶うわけがない。

「もう迎えはいらないってことかな?」

そんな冷たいこと言うなよ。
俺はただ…

届かない。
イオナの目に自分が映ることはない。

それはいつものこと。
大切に思うものから拒絶されるのは馴れている。

これまでの自分と今の自分がごっちゃになる。混沌とした感情の渦の中、ゾロはただ、イオナから向けられた軽蔑のこもる眼差しを受け入れることしかできなかった。

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