triangle | ナノ

衝動の代償

断られることはわかっていた。それでも攻めたのは、理性が衝動に勝てなかったせいだ。衝動的にイオナが欲しくて仕方なくなっただけだ。

すべては衝動のせい。
頭より身体が先に動いたせい。

でも本当に"それだけ"なのだろうか。

不確かなことに意識を削がれてしまう。そう考え、慌てたゾロは、申し訳なさそうな顔をする教育係に背を向ける。

一歩を踏み出すのに躊躇いはない。
どちらにしてもオフィスで一緒なのだから、今ここでグダグダした方が、後に引いてキツいだけだ。

別に俺は傷ついてなんかない。
拒まれたことは残念だが、それはそれ。
そこにこだわる必要なんて…

そう胸中で呟いている時点で図星なのだが、いちいち自己分析したりはしない。自分のだらしなさは100も承知だ。いまさら傷心なんてしていられない。

「待って、ゾロくん。」

本気で拒んだことを申し訳ないと思っているのだろう。イオナの声はか細く、震えていた。

「急げよ。遅れるぞ。」

かっこつけだと思われただろうか。軽い奴だと思われただろうか。そんなことを考えてしまう自分がアホくさい。わかっているのに頭の中はイオナのことでグルグルしていた。
…………………………………………………………………………

イオナより先にオフィスに入る。
廊下にも暖房はついているが、その中はさらに蒸す。冷え性な女子社員はこのくらいがちょうどいいらしいが、新陳代謝の激しいゾロとしてはあまり心地のいい環境ではなかった。

とっとと自らのデスクに着くと、ジャケットを脱ぐ。ネクタイを緩めてボタンを開けるが、それでもこの環境に馴染めるかと言われれば微妙だ。

他の男子社員たちがジャケットを着たままなせいか、彼のスタイルは少々浮いているが、本人はそれを一切気にしない。

後から入ってきたイオナは、ゾロの向かい側にある、自身のデスクへ着く前にジャケットを脱いでしまっていた。中にセーターを着ているのだから、当然のことだろう。

イオナは自分のデスクに寄ると、すでに先に仕事を始めていたエースに向かって、柔らかな声音で声をかける。

「エースさん。おはようございます。」と。

「おう、おはよう。身体は大丈夫か?」

「ちょっと頭は痛いですけど…」

「付き合わせちまって悪かったな。」

「いえ。」

そのやりとりはまるで、"先程のゴタゴタなどもう忘れてしまった"とでも言うような、落ち着いた口調で行われた。

ゾロは小さく舌打つ。

彼女になにも伝わっていないことを思い知らされた上に、他の男との親しげな会話を見せつけられている。なにより、この二人の放つ雰囲気が昨日までのそれより、より親密に思えた。

昨日一緒に居たのは『この先輩』か。
にしても、どこまで"いった"んだ?

イオナが好きなのはエースではない。たぶん、いや、確実に《あの上司》だろう。イオナは、『好きな男の直属の部下』と安易に寝てしまうような浅はかな女ではない。

それはさっきのやりとりで実証済みだ。

雰囲気だけで乗るような尻の軽さはない。それでも、《この男》とは親密になっている…。

彼は考える。

身体を重ねてもいないのに、男女間に親密さが生まれることなど有り得るのだろうか。と。

食い入るように見つめてしまっていたせいか。イオナの視線が一瞬ゾロへと向けられる。エースとの会話が終わり、彼女が席に着くタイミングだった。

決して美人とは言い切れない横顔。けれど、どれだけみても飽きない、奇妙な魅力がある横顔。

それが向きを変え、彼へと向けられる。

それに気がついたゾロは慌てて顔を背けてしまったために、気がつけない。イオナの瞳に、不安げな色が映し出されていたことに。
…………………………………………………………………………

キーボードを叩く指がいつもより鋭くなる。「両手の指先の全てでキーボードと触れあえるようになってね。」とイオナに言うから、教えられたソフトでブラインドタッチの練習をしている。

間違うとイオナがいちいち大袈裟に喚くから、ExcelとWordくらいは使えるようになれたらいいなと勉強だってしている。

学生の頃ですらやらなかったほど、熱心にパソコンに向かっているつもりだ。

確かに結果はついてきていないが、それなりに努力はしているのに、彼女はまったく笑顔を向けてくれない。

時折、ほっとしたような、曖昧な笑みは見せてくれるが、今まさに上司に見せているような笑顔を向けてくれたことは一度もない。

なにやら雑談を交わすシャンクスとイオナに、ゾロは鋭い視線を向ける。煩わしそうにしながらも、話に交ざるエースにイオナが笑いかけ、彼もまた彼女に笑いかける。

きっとそれは、端からみれば普通のやりとりなのだろう。そのため他の社員たちは、彼らのやりとりを気にも止めていない。

これが普通で、これが当たり前の光景なのだ。

だからこそ腹が立つ。『教育係』が仕事を教えようともせず、他の男と仲良くしているからという理由ではない。

男としてこの状況は屈辱的なように思えた。

他人のモノを欲しがるような質だったろうか。一人の女に執着するようなタマだったろうか。いちいち感情の機微に振り回される、愚かな男だったろうか。

あぁ、頭がパンクしそうだ。

そう思った瞬間、パソコンから大袈裟なエラー音が響く。「あぁーっ!」と右隣の席の女が声をあげ、「そのデータ消しちゃ…」と左隣の男が呻く。

駆けつけたイオナの泣きそうな顔を見た瞬間に、またやってしまったと頭を抱えたくなったが、いまさらそんな態度を取るわけにもいかない。

「てめぇがちんたら雑談してるからだろ。」

動揺する彼女に追い討ちをかけるようなことしか言えない自分。そんな情けない自分の態度に、無性に嫌気が差した。
……………………………………………………………………





prev | next