triangle | ナノ

わずかな葛藤

─キスされるんだ。

そう理解できた程度には、脳みそは冷静だった。それでもイオナが呆気に取られていることには代わりなく、一気に顔の距離が縮まる。

思わず息を止めてしまう。

─あぁ、私はわりと軽い女なのかもしれない。

イオナは早鐘を打つ自身の心臓を恨む。こんな強引な、乱暴なやり方になにを思って"ときめいて"いるんだ。別れた女につけられたキスマークを堂々と晒していたこの人に恋慕の感情なんてあるわけないじゃないか。

頭では受け入れてはいけないとわかっている。
けれど、突然のことに身体が動かない。一秒がやけに長く思え、そのくせに気持ちは急かされる。

互いの息のかかる距離。これ以上近づいてしまえば、唇は重なってしまうだろう。イオナは高揚と不満の中でもがく。

このときめきは妥協なのだろうか。それとも、雰囲気に飲まれているだけなのだろうか。自分のことがハッキリわからないというのも変な感じだ。

唇に熱がかかる。触れるか触れないか、数ミリの距離まで近づいたそのタイミングで、イオナは無意識に腕を突きだした。手のひらが思ったよりも強く、ゾロの胸板に触れる。

顔が離れると同時、彼は後ずさった。

そして、無言。

出勤する社員たちが行き交う喧騒が遠くに聞こえるが、二人の間の空気が重いことに変わりはない。

なんとなく攻められてるような気がする。

「ごめん…」

「なんで謝るんだよ。」

悪いことをした訳じゃない。けれど、相手を拒むというのはなかなか罪悪感を覚えることだ。イオナは俯いたまま、「だって。」と口にする。すると、何故か彼は鼻で笑った。

「ったく、このくらいで動揺すんなって。」

「からかったの?」

「別に。」

ちょっと自棄の入った調子でそう吐き捨てた彼は、顔をフイッと背け、ダルそうに後ろ頭を掻いた。その動作をする時は、大抵なにかを誤魔化している時だ。

重要な書類を誤ってシュレッダーにかけてしまった時や、「トイレに行ってくる」と言い残し、建物内にあるコンビニで立ち読みしていたのを咎められた時にボリボリやっていた。

イオナは勘ぐるような目をゾロに向ける。
途端に彼はたじろいだ。

「─なんだよ。」

「なにか隠してる?」

「なんも。つーか、失恋したつってんだから、キスくらいサービスしろよ。」

「サービスってなにそれ。」

会話がどこかぎこちなくなるのは、ゾロのせいだけじゃない。自分自身の喉から出る声がふるふるしていることに気がつかないほど、イオナはバカじゃなかった。

そして、彼もまた─。

火照った頬に、さらに熱い手のひらが触れる。きっと彼は押せばなんとかなると考えているのだろう。不器用そうに見えるその指先は、滑らかな動きで輪郭をなぞり顎を持ち上げた。

「からかってなかったら、させてくれんの?」

無理矢理に視線が噛み合う。やめてと言えばそれだけなのに、言いにくい。言えない。なにかが邪魔をする。

「あの…ゾロくん?」

「答えろよ。」

「無理、に、決まってるでしょ…」

「へぇ…なんで?」

「なんでって、そんなの…」

目をそらしたところで、顔の距離はいくらだって詰められる。朝から、会社で、後輩とこんな展開になるとは。心底泣きたい気分だ。

でも、それでも、ときめいている自分がいる。

身近な存在と恋愛関係になると、いろいろとめんどくさいことが多い。身辺整理をきっちりしていないにも関わらず、こんなことになってしまうと…

いや、待って。これは恋愛なのだろうか。
確かにときめいてはいるが、それは動揺しているからじゃないのか。ただ一方的にキスされそうになっているだけで、恋愛感情なんてものは─

相手も自分も感じていない─

そこに思考が行き着いた途端、イオナの頭は冷静になった。配線のつまりが取り除かれたかのように、ポンッと言葉が溢れる。

「好きな人が居るの。」と。

ゾロは驚いた顔をした。その一拍後には眉間にシワを寄せて「は?」と一言。

「できない。ゾロくんとは、その、こういうことは、できないの。」

「………へぇ。」

納得してくれた。そう思えるほど、彼は腑に落ちた様子ではなかった。けれど、顔も身体も離れた。そして小さく舌打ち。

「ごめんなさい。」

思わずまた謝罪の言葉を漏らしてしまう。これじゃあまるで、彼を振ったみたいな感じだ。告白もされてないのに、一方的に振ってしまった。

彼もこの状況をそう判断したのか、なにも言わないで踵を返す。心底苛立った様子で。

なにかフォローしないと。

そう思うけれど言葉がでない。モヤモヤとした不穏なオーラをまとったゾロは、乱暴な足取りで階段を登っていく。

なにも言えない。なにもできない。

イオナは自分の不器用さに苛立った。


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