フォロー要員退社時刻。
トイレへと向かったゾロを待つイオナは、彼のために作成したマニュアルをながらつつ深い溜め息を繰り返す。
ルフィのところまで誤解を解きに行った後(正確にはゾロとルフィの大喧嘩の後)、二人は部署に戻った。
二人の口論は他部署の上司が出てくる騒ぎにまで発展したが、ゾロとも付き合いの長いナミの登場で収拾がついた。
突然現れたかと思うと「こうしたら止むから。」と二人にゲンコツをしたのにも驚いたが、ゾロとルフィ、双方が呻くほどのダメージを受けたことには更に驚いた。
部署に戻り、さて仕事を教えようかとなったところで、彼がパソコンの一切を扱えないことを知り、基本操作の説明から入った。
午後からの数時間、みっちり指導してみたものの、なんの感触もなく手応えもない。まるで粒子を掴もうとしているかの如く、スルスルと指の間をすり抜ける。辛うじてインターネットはできるらしかったが、カリビアンコムは社の回線では閲覧不可能だ。
不出来な後輩の首を傾げ、小さく唸り、ワシャワシャと頭を掻く姿を何度見たことか。その都度説明してみるが、メモをする様子もなく、ただただ難しい顔をして誤魔化す。
理解力が乏しいだけならまだいい。根気強く同じことを繰り返すのは、地味なだけあって得意なのだから。
ただ、それでも、受け取ってくれるはずの相手にやる気が見えないのはキツかった。
「なんとかなりそうか?」
「いえ。なんともなりそうにないです。」
「まぁ、パソコンいじれねぇもんな。」
エースの問いかけにイオナは首を横に振る。完全に諦めたような後輩の態度に、彼も困ったように笑い、肩をすくめた。
「スタートボタンで強制終了させる人なんて、都市伝説だと思ってました。」
「あぁ。あれな。ダチのばーちゃんがそうだったから俺からすれば珍しくはない話だな。」
「ばーちゃんレベルってもう…」
「そーいや、アイツに仕事もって帰らせるなよ。ウィルスで漏洩とか勘弁だぞ。」
「USBを持って帰ったところで使えないと思いますよ。すごくアナログくんなんで。」
「それでもあれだ。わかんねぇなりに余計なことしちまうことってあるだろ。」
なにか経験があるのだろうか。嫌なものを思い出したような顔をする先輩に対して少しの気まずさを覚えたイオナは、今日覚えたばかりの単語について訊ねてみる。
「カリビアンコムって呪文ですか?」と。
途端にエースの表情が凍った。なんでそんな単語知ってんだ!?なにがあったんだ!?と顔に書かれてあったが、それも一秒程度の間だけ。彼は慌てて表情を取り繕い、きまずそうな面持ちでありながらも、慎重に答える。
「まぁ、どうかと言われれば…、召喚系だな。」
「召喚系ですか…」
「帰って調べるなよ!ろくなもんじゃねぇから。」
適当に取り繕ったつもりが食いつかれた。神妙な顔つきになった後輩の肩をつかんで、エースは訴えた。
するなと言われたらしてしまいたくなる心理作用のことを考えると、そのリアクションは失敗だ。けれど生真面目なエースにとってはそれが精一杯の思いやりだったのだろう。
そんな先輩をみてイオナも面食らう。
まさかここまで取り乱されるとは。ちょっと照れてもらうくらいでよかったのにと。
ごめんなさい。どんなサイトかはさっきゾロくんから聞きました。とは言い出せず、「あ、いえ。呪文とか使わないので…」と特殊な返事をすることしかできなかった。
ほんの少しの出来心と、好奇心でおかしなことを言ってしまった。ぎこちなくなった先輩を前に、イオナもまた居心地の悪さを感じていたのだが。
その雰囲気を打破したのは、トイレから戻ってきた新人だった。
「まだ帰んねぇのかよ。」
ゾロは戻ってきた途端に退屈そうな顔をする。エースさんの前でそれはなし!とイオナが言い返すが、それでも彼は不貞腐れたような態度を改めない。
「いいんだいいんだ。俺はルフィの兄貴みたいなもんだし、そのダチに偉ぶろうなんて思ってねぇさ。」
「よくないです。私はともかく、エースさんやシャンクスさんたちの前では"ちゃんと"してもらわないと。」
「自己評価の低い奴にとやかく言われたくねぇよ。」
「あのね…ゾロくん?」
「俺は俺のやり方がある。俺に指図するな。」
「俺のやり方って。パソコンの強制終了のこと?それとも、人差し指でキーボードを叩くこと?」
「今はそんな話してねぇだろ。」
「二人ともやめろって。」
怒っているのとはまた違う。困ったような、呆れたような表情を浮かべ、淡々とした口調で後輩を諭すイオナ。ゾロが喧嘩腰なのもあり、段々ヒートアップするのではとエースが仲裁に入った。
「でもエースさん。他の社員に示しがつかないですよ。それでなくても目立ってるのに…」
「うるせぇよ。てめぇに心配してもらう必要なんざねぇんだよ。」
「てめぇって、なにそれ。なにそれ!」
ムッとした顔をするイオナ。その様子は完全に先輩らしくない。どちらかと言えばヤンチャな弟を持ったドジな姉のリアクションだ。
ゾロの野暮な物言いだけならまだしも、熱くなるイオナにはエースもおてあげらしく、「まぁ、待て。」とか「落ち着けよ。」とか優しく口を挟むだけ。
三人を包み込んでいたのはピリピリした喧嘩の雰囲気というより、ガヤガヤとしたアットホームな雰囲気。きっとイオナの怒りにパンチがないのと、ゾロがどこか彼女を見下しているせいだろう。
「方向音痴のくせに!」とか「かわいげのない女だな。」とか「ばかばかばか」とか「嫁の貰い手なんかねぇぞ」とかそんなレベルの口論はどこか微笑ましい。
三人以外の社員はちゃくちゃくと退社しており、早く帰りたかったはずのゾロもイオナと言い合うのに夢中で本来の目的はどこへやら。
いい加減にしろとエースが声をあらげようとしたタイミングで、ゾロの肩がポンと叩かれ、陽気な声がかけられた。
「お前は今日一番の良い仕事をしたな。」と。
「は?」と声を揃える、その場にいた三人。当然の登場な上に、何を言っているのかわからない。
三人はそれぞれに互いに顔を見合わせたあと、その声の主であるシャンクスへと視線を向けた。
「イオナの怒ってる顔が見れた。つたない喧嘩ごしはかわいかった。俺としては満点だな。」
冗談なのか、本気なのか。
今日何度目かの「かわいい」に、またもやときめくイオナと、なんとも言いがたい表情で頭を掻くエース。きっと彼はシャンクスの言葉が半分本気で、半分警告であることを悟ったのだろう。
ゾロもまたばかではない。一瞬呆けた顔をしたのち、すぐにその表情を切り替えた。
「イオナはお前にとっての先輩であり、教育係だ。でも先輩や教育係である前に女性だ。あんまり強い口調で罵るな。可哀想だろう?」
口調は優しい。小さな子供に言い聞かせるみたいに、朗らかで温かい。それなのに目が笑っていなかった。それは、本当の意味で怒らせてはいけない人であることを物語っている。
ゾロは不満げな表情を浮かべながらも、シャンクスから惚けた顔のままのイオナへと視線を向ける。
かわいいと言われたのがよっぽど効いているのか、彼女はシャンクスを見つめたままで、表情筋、特に口元辺りがフルフルと震えているように見える。
「おい、イオナ。」
「へ?私?」
「悪かったよ。」
「え?なにが?」
「別に。まぁ、いろいろよろしくな。」
すでにゾロの存在など忘れていた。シャンクスさんしか見えていなかった。そんなイオナにとって、突然の謝罪は意味がわからない。それでも「うん。分かった。」と返事をしたのは場の空気のせいだろう。
もとよりゾロとの言い合いにストレスはなかった。どちらかと言えば鬱憤をストレートに発散できたため心地が良かったほどで、今までに経験のないことだった。
ゾロはそんな先輩の心情を知るよしもなく、ただ片想いに浮かれる姿を、何となく羨ましく、微笑ましく思っていた。
その感情にこれからどれだけ振り回されることになるかも知らずに、イオナの濁りのない無垢さに目を奪われるばかり。
「エース、お前ももっとイオナを愛でろよ。大切にしないと辞められたら困るだろう?」
「わかってますよ。こんなこと…」
「んじゃ、みんなで飯でも行くか。もちろんおごりだ。会社のな?」
「経費で落ちるわけないでしょう。シャンクスさん自腹切ってください。」
「エース、お前ってヤツは!」
エースがダルそうな口調なのは、軽快すぎるシャンクスのテンションとのバランスをとってのことだろう。
結局、イオナはシャンクスから放たれた『自分のための警告』に何一つ気がつくことなく、ただ褒められたことだけを記憶しており、エースが自分たちのフォロー役として任命されたことにすら気がついていない。
「イオナと飯か。なんか嬉しいな。」
「俺今晩予定あるんすけど…」
「なんだ?ゾロ。女か?お前女ったらしなのか?」
「シャンクスさん、すでに酔ってます?」
「んなわけねぇだろ。エース、お前マイナス30点な。」
「何からマイナスされたんすか?」
テンポのよいやりとりに、イオナは笑ってしまう。その表情を三人の男たちがそれぞれチラチラとうかがっているとも知らず、今日一番の笑顔でカラコロと笑っていた。
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