関係性この男、いったいどうしてくれようか。
イオナは、怪訝な表情で見下ろしてくるゾロの頭の先から爪先までをまじまじと見つめる。
このまま社員食堂なんて入れば、絶対に嫌な噂が立つ。その上、自分までも目立ってしまう。目立つだけならともかく、目をつけられでもしたら…。
背筋のゾッとするようないざこざを思い浮かべながら、イオナはどこから直すべきかを真剣に考える。とにかくめんどくさいことは御免だった。
「まずはピアスはずそうか。」
「え…?あぁ、おう。」
全身を舐めるように観察された挙げ句の突然の指示に、ゾロは狼狽える。壁際に突然追いやられてのそれなので、少々期待はずれでもあった。
─ここは普通、アレだろ。
何となくエッチな妄想をしてしまったのは、彼女から漂う甘ったるい香りと、地味な外見とのギャップのせいだろう。おとなしめの女性社員と…なんてのは、アダルトビデオによくあるシチュエーションだ。
なまじまともに働いたことのないゾロからすれば、会社とは、そういった"脚色された組織"としてのイメージが強かったらしい。
おまけに、イオナのたどたどしい態度が、主導権を握りたいと考える彼の性格を大きく揺さぶっていた。
ほんのちょっとイヤらしい期待をしていた後ろめたさもあってか、彼は素直にピアスを外す。
「これでいいのか?」
「うん。」
難しい顔で、それでも満足げに頷いたイオナ。勝手に真剣になっている先輩を前に笑ってしまいそうになるゾロだったが、彼女の手が襟元へと触れたところでわずかにたじろぐ。
「ちょ、なにすんだよ…」
「いいから!」
「お、おい、ちょっと待て…」
「黙ってて!」
ひょいと背伸びをしたせいで、顔の距離が一気に迫る。ゾロは気を引き締めるが、彼女の視線は何故か襟元へと注がれていた。
「なんだよ…」
「いいから。動かないでよ。」
イオナはゾロのシャツのボタンを閉め、だらしなく襟元にひっかけられたネクタイに触れる。そのしぐさのところどころで、彼女の不器用さが露見し、ゾロの喉仏や首筋に指先がちょこちょこと触れる。
「なにしてんだよ…」
「もうちょっとだけ待って。」
なにをされているのかをなんとなく理解しながらも、黙っていられないのは状況のせいだろう。もちろん首筋が性感帯というわけではなく、そんな兆候ももちろんない。
ただイオナのその真剣な表情が、何故か妙に可愛らしく思えて仕方なく思えたのだ。
─なんで俺が動揺してんだよ…
イオナを見ているとおかしくなる。ゾロは慌てて視線をそらす。そこでやっと、ずっと彼女の顔をみてしまっていた自分に気がついて、頭を抱えたくなった。
別に大逸れた美人というわけでも、とっておきに可愛らしいというわけでもない。どこにでもいるような、素朴で普通で、ちょっと地味な顔立ち。
それでも、引寄せられる"何が"がある。
その"何か"がどういったものなのかはわからないが、ゾロからすればそんなものは気にするに値しない。はずなのに…。
「早くしろよ。」
「待って。もうすぐだから…って、あれ?」
ゾロの急かす言葉に、イオナはさらに焦る。これまで誰かのネクタイを締めてあげるような機会などもちろんなく、上手くできないことに焦燥感が高まる。
できなかったらどうしよう。でも、この男だって締めれそうにない。なんとか絞めてやらないと、特に人の多い食堂になんて連れて行けない。
頭を抱えたくなるのを必死で我慢して、なんとかしようと忙しなく指先を動かす。
「あれ?なんで…」
思わず口から溢れる本音。ハッとして視線をあげると 、彼は驚いたような、困ったような、ううん、不機嫌な顔でイオナを見ていた。
「ごめんね、あの…」
締め方がわからないだなんて、そんなカッコ悪い話があるか。でも、言わないと時間だけが無駄に過ぎていってしまうし、なにより爪先立ちもそろそろ限界だ。
イオナはつま先立ちをやめ、手をひっこめる。怪訝な顔をする彼の視線から逃げるように顔を俯け、言葉を絞り出す。
「その、ネクタイが…」
締められないと告げる途中だった。
「こんなとこでどうした、イオナ。」
二人に明るい声がかけられる。
「え?シャンクスさん?」
さっきまで困った顔をしていたイオナの表情に、光が差す。それだけじゃない。彼女は慌てて後輩から距離を取った。
「入って初日によろしくやってちゃダメだろ、お前ら。」
「ち、違いますっ!あ、あの…ネクタイが…」
慌てたように原因を告げるイオナは、ゾロを指差した腕をブンブンと振る。まるで子供みたいな慌てップリにシャンクスは小さく笑う。
「あぁ、結んでやろうか?」
「おねがいします。」
さっきまでの頑なな態度と異なり、彼女はずいぶんと素直だ。それと同時に、その瞳には"憧れ"とか"敬愛とかそういった強い想いが見え隠れしている。
他人の恋路なんかどうだっていいと考えながらも、これだけわかりやすくされてしまうと居心地が悪い。ゾロは小さく舌打ちしたい気持ちを押さえつつ、先ほどまでイオナがいじり倒していた首元に無意識に手を持っていった。
イオナに向かって優しく微笑んでいたシャンクスは、少し視線をあげ、今度はゾロに笑いかけた。悪戯っ子のようにニィッと。その純真無垢というか、真っ直ぐすぎるくらいの笑顔はルフィに良く似ている。
そこでゾロは以前に、ルフィの口からシャンクスの名を聞いたことがあったのを思い出した。縁者だろうか。それとも、インスピレーションの問題か?
ルフィのことを"手に終えない"という人が多い。けど、彼の破天荒さを理解した上で、波長さえ噛み合えば何ら問題はなかった。
この男もルフィと上手くやれるタイプの奴か…
それだけで彼が特殊であることは充分に理解できた。
「一応はじめましてだな、ゾロ。俺はお前らの部署で偉そうにしているもんだ。面接を覗き見してたんだけど、バレてはねぇよな?」
「あぁ。つーか、はい。で、その、よろしくっす…」
「敬語が不自由なタイプか。ルフィと一緒だな。」
何気ない会話。普通の笑顔。それなのに、どうした訳か彼には逆らってはいけない気がする。ゾロはシャンクスから発せられるプレッシャーを敏感に感じ取る。
しかし、相手はそんなことはおく微も出さない。
「ちゃんとみとけよ、イオナ。
ネクタイくらい結べねぇと嫁に行けなくなるぞ。」
「よ、嫁になんて貰い手ないですよ。」
「あるある。ないわけないだろーが。」
シャンクスは自然な流れでゾロに歩みより、サクッとネクタイを絞めて見せる。イオナは憧れの上司の口から「嫁に」だなんて言葉がでたせいか、あからさまに照れたような、恥ずかしがるような表情を浮かべてあたふたしていた。
その恥じらいの表情に不覚にも見とれてしまっていた自分に、ゾロは驚いた。おいおい待てよ。と胸中で呟いて、乱暴に頭を掻く。
その間も、シャンクスの指は迷いなく動き─
「ここをこうすりゃ、ほらできた。」
「あ、ほんとですね。簡単だ…。」
感嘆の声を漏らすイオナ。敬意だけじゃない。彼女の匂いにふさわしい、甘ったるい感情が駄々漏れる声音だ。ゾロは居心地の悪さを感じながらも、自分のネクタイに触れようとする。が。
「それだけじゃねぇ。こんなのもあるぞ。」
何故かシャンクスは今しがた絞めたばかりのネクタイをほどいて、先ほどとは 違う手順で指先を動かし始める。やられていることはほとんど見えないが、なんとなくの感覚は伝わってきていた。
「ほれ。こっちだとちょっと豪華にみえるだろ?」
「はい。」
「このネクタイならこっちのが合うよな。」
「いろいろあるんですね、結び方。」
イオナはまるでゾロの存在など忘れてイルカのように、シャンクスの横顔を見つめている。ネクタイをみろよ。そう言いたいゾロだったが、自分が蚊帳の外に出されていることに気がついていたので、そこら辺は知らぬ顔をしておいた。
「もういいだろ、俺で遊ぶなよ。」
「あぁ、悪いな。」
「ゾロくん、敬語…」
「いいよ、俺の前だけならな。」
どこまでも余裕のある男は、ゾロの襟元を整えると、その手でイオナの頭をポンポンと撫でる。まるで子供にするような触れ方なのに、イオナはどこかうれしそうだ。
しかしすぐに、シャンクスは手を引っ込めた。「おっと、これはダメだったな。」と一人で笑って。いつものことなのか、イオナは驚いた顔すらしない。
「セクハラおやじとか言われたら、俺はもう会社に居られなくなっちまう。」
「誰も言いませんよ。」
「いやぁ、噂ってのはコントロールの効かないもんだ。怖ぇよ。ほんと。」
冗談っぽく肩を竦めながら砕けた口調で言ったシャンクスは、エレベーターホールへとは向かわず、何故か颯爽と階段をかけ上がり始めた。
「お前らもエレベーターじゃなく、階段使えよ。健康にいいんだぞ。」
そんな上司の後ろ姿をうっとり眺めるイオナを、ジッと見つめるゾロの目は少しだけ鋭い。
しかしゾロ自身、自分がそんな目をしていたとは気がついていなかった。
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