契約社員『頑張りなさい』『しっかりしなさい』『努力しなさい』 『我慢しなさい。』
親の言いつけを守って生きてきた。
25歳彼氏なし。
大卒の契約社員3年目。
親の期待通りに高学歴になってみたものの、職業難のせいか大手企業の契約社員にしかなれなかった。
短大卒の友達が正社員としてバリバリ働いて居るのに、中半端に学歴をつけてしまった私ときたら…
デスクに溜まった書類を眺めた後、乾いた瞳に目薬を差して小さくため息をついた時、
ピーピーピーピー
デスクの隅に置いた加湿器の給水音が鳴り響き、水を補給しようと席を立つ。
学生の頃にはすぐに治っていた喉かぜをこじらせやすくなったのは、歳のせいか疲れのせいか。
給湯室にたむろう若いバイトちゃんたちの声は耳に響き、また心を重くする。
「また暗い顔して、どうした?」
声をかけてくれたのはこの部署の課長であるシャンクスさんだ。
マグカップに注がれた湯気の立つコーヒーを飲みながら、優しく微笑むこの人の笑顔はまるで湯たんぽのように温かい。入社以降何度助けられただろうか。
「悩みがあるなら相談乗るぞ。」
「悩みと言いますか…」
「ん?」
「いつになったら正社員になれるのかなぁと。」
「なりたかったのか?」
「はい。」
「なら、推薦状書いといてやるよ。」
「えぇ?」
「上司からの推薦状ありゃ、サクッとなれるだろ。正社員。」
なんとも簡単に言ってしまわれる。これまでずっと不満に思っていたことを、ここまでアッサリと片付けられてしまうと、それはそれでちょっと複雑だ。
あまりの驚きで、給水タンクから溢れている水にも気づけなくて、それをみかねたその人が蛇口を閉めてくれた。
「学歴もいいのに契約社員なんかで入ってくるから、転職希望があるとか、恋人がいて結婚間際とかそんなかと思ってた。」
「そんなんじゃなくて…。」
「正社員、受からなかったのか?」
「はい。」
あまりにも不満げな態度を取りすぎただろうか。それまで不思議そうな顔をしていたシャンクスさんが、小さく笑う。おまけに「そんなむくれるなよ。」なんて言われてしまえば、子供扱いされたも同然だ。
25にもなって子供扱いされるような態度をとってしまった。そんな自分自身の幼稚さに、頬が熱くなる。
顔が赤くなってしまうのではと不安になったが、続けられた上司の言葉によりすぐに気持ちが切り替わった。
「その代わりと言ったらアレだけど、中途採用の社員研修やってくんねぇかな。俺、会議詰まってて手ぇ空いてないんだわ。」
「えぇ…」
「無理そうか?」
「いえ、そうでもないんですけど…。その人は正社員ですか?」
「あぁ。」
「契約社員の私なんかで…」
確かに契約社員だろうが、正社員だろうが仕事内容は変わらない。でも立場は圧倒的に正社員の方が上で、給料も彼らの方が上だ。
ひねくれているわけではないけれど、でも納得はいっていなかった。
入社した時点で自分より給料をもらっている"新人"の世話をする。妬んでいるわけではないが、なんとなく嫌だったのだが。
「お前だからいいんだろ。そこらのアホな正社員より、イオナの方が真面目によくやってるからな。」
この言葉で少しだけ気を良くしてしまった。
考えておいてくれよ。と笑顔で言い残したシャンクスさんは、新しく入れ直したコーヒーを持ちその部屋を出ていってしまう。
「推薦状…。」
そんなものがあったことも知らず、約3年間なにも言わないで働き続けていた自分はただのばかじゃないか。
それでもシャンクスさんは評価してくれている。ずっと評価し続けてくれていた。たしかに給料などの面では優遇されていないけれど、課長であるあの人に褒められた上に、社員になるチャンスを与えてもらえたのだから無駄ではなかったのかもしれない。
少しだけいい気分でデスクに戻り、加湿器のボトルを本体にセットする。ノートパソコンを開いたところで、隣から視線を感じた。
「おい、引き受けちゃっていいのか?」
心配げな声の主は、隣のデスクで仕事をこなすエースさん。役職こそないが、課長の右腕のような存在で、会議の資料等は彼が作成しまとめていることも多い。
デスクは隣だけれど仕事内容は大きく異なり、飲みの席では会話するものの仕事中には事務的な会話以外あまり交わすことはなかった。
そんな彼が私に何の用だろうか。
「なんのことです?」
「中途のヤツ、ルフィの友達だと。絶対やべぇぞ。」
ルフィくん…。
社長の一人息子でヤンチャで大雑把で食品管理部の問題児で、秘書課のナミさんと婚約していて。
頭の中を駆け巡るのは、給湯室で耳にした噂話で真実かどうかなんてわからない。
「まだ引き受けてないです。」
「でも、シャンクスさんはやらす気満々だからな。やるしかねぇよ。」
「そんな…」
エースさんが顎で指した先、シャンクスさんの方ヘと目をやるとこちらの視線に気づき、ウインクなんて飛ばしてくる。
「なんかあったら相談しろな。」
「はい。」
「俺なりにフォローはするから。」
「ありがとうございます。」
毎日忙しそうにしているのに、フォローだなんて。どれだけのスペックがあれば、そこまで気配り屋さんになれるのだろう。
そんなことをぽんやり考えている私の前で、タブレットを軽く操作したエースさんは、ぐいぐいとネクタイを閉め直す。
本当にモテそうな人だ。
顔立ちといい、仕事熱心さといい、気配り上手なところといい、絵にかいたような高スペックに見とれてしまう。
そんなこちらの視線に気がつくことなく、慌ただしく席を立った彼はシャンクスさんに向けて「取引先にいってきます」と挨拶した。
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