迎えを待つゾロは猫の喉元を撫でながら、その愛くるしさを堪能していた。迷子になって大遅刻している張本人なのだが、焦っている様子は一切ない。
猫は心地よさそうに瞼を閉じて、ゴロゴロと喉を鳴している。その気の抜けるような表情に癒されていたゾロだったが、胸ポケットがブーブーッと振動し現実に引き戻された。
「よし、ちょっと待ってろ。」
猫に声をかけスマホを取り出そうとするが、親しげに足に擦り寄ってきて、それがもう可愛くて仕方ない。つい口元を緩めてしまいながら、画面の番号を確認もしないで通話ボタンを押して耳に当てる。
するとどうだろう。
「あの、もしかして…」
電話口からなのか直接なのか、ゾロの耳に流れ込んだのは消え入るような女の声。振り向き少し視線を落とすと、そこには小柄で真面目そうな女が立っていた。
しかもすごく不安そうな顔で。
「あなたが新入社員の…」
怯えたような口調とその表情はなんとなく間抜けで、この盛大な遅刻も怒られそうにないことにゾロはホッとした。だからこそ、へりくだることもなく、申し訳そうにする訳でもなく堂々と返事をする。
「おう、ロロノア・ゾロだ。 」と。
遅刻した者とは思えない、堂々たる口ぶり。
まるで悪びれた様子のない彼の態度に呆気に取られたイオナは、ただ口をパクパクするだけ。怒るべき対象を見上げたまま、パクパク、パクパクを繰り返して数秒。
彼女はハッとしたように言葉を紡ぎ始める。
「ロロノアくん。あ、あの…。私はイオナです。えっと、本日から教育係やらしてもらうことになりました。それで…」
「迎えに来てくれてありがとな、イオナ。すげぇ助かった。あと、呼び方はゾロでいい。名字なんてムズ痒いんだよ。」
「な、名前、よ、呼び捨て!?」
一生懸命話すイオナに対して、ゾロは気だるそうに返事をする。それがまた彼女を刺激してしまったようで、突然あたふたし始めた。
そんなイオナの"見た目とは不釣り合いな慌ただしさ"にゾロは思わず吹き出した。もちろんその笑いには"怒られなかった"という、安堵の意味も含まれていたのだが…。
イオナがそんなことを知るはずがない。
何ら悪びれた様子もなく突如笑い出した後輩と、それになついた猫をみつめる彼女の心は(当然のことながら)穏やかではなかった。
(この風貌にも驚いたってのもあるけれど…)
遥々電車を乗り継いで迎えにきたのに、名前を呼び捨てにされた挙げ句笑われている。遅刻した立場で何故笑えるのか。何を笑っているのか。ついでになんで猫はこんなにかわいいのか。
真面目に生きてきた彼女は、この状況をどう受け入れればいいのかわからなかった。
「イオナはなんなんだ?」
「何とは?」
「会社での立場っていうか、ほら、あるだろ。役職みたいなやつ。」
「あぁ、その…。役職はないです。ただの入社三年目の契約社員で…」
「へぇ。なら、俺のが偉いんだな。」
「は?」
「契約社員より、正社員のが上だろ?」
エースさん!コイツです、コイツ!
思わずそう叫びたくなるような発言だが、真面目に生きてきたイオナにとって、そこまでの余裕はなかった。ただ、ひたすらにこの"あり得ない存在"を持て余す。
(これが噂のゆとり…?)
なにぶん、大人しく慎ましく生きてきたために、非常識と触れあったことがなく、知識としてのそれを頭に浮かべるが答えをくれる者はいない。
「でも一応教育係だから。それに年齢も2つ上だし、勤続年数だって…。だから、ちゃんと話は…」
「細かいことなんざ気にすんな。俺らの間は無礼講な。で、イオナは俺ん家から会社までの道のり案内してくれんだろ?」
「無礼講って言うのは、そうじゃなくて…。あぁ、でももういいや。あと、最寄り駅からでいいと思うんだ。今朝、駅まで来れたんだよね?」
「いや、わかんねぇからタクシー使った。」
ゾロとの会話で、すでにイオナの常識感がグラグラと揺れる。
どうしよう。どうしたら彼の常識を受け入れることができるのだろう…。という考えばかりが、彼女の頭の中で巡りめぐるが、その原因であるゾロがあまりにも堂々としているため、「もしかしたら彼のほうがまともなのでは」という不安すらイオナは感じ始めていた。
「地図持ってるって聞いたんだけど、見せてもらってもいい?」
「あるけど、んなの見ても行けなかったぞ。」
不満げに差し出されたメモはぐしゃぐしゃだ。それでもその内容はしっかりとしたもので、迷子になる要素など1つもない。
「あの、これをみてもわからなかったの?」
「あぁ。」
「う、うそだぁ…。」
イオナが漏らした本音に、ゾロは眉を寄せる。
「なんだよ。」
「なんでもないけど…、その、このメモ、すっごくわかりやすいよ?」
不思議そうに首を傾げた彼女の瞳には、明らかに飽きれと不安が映っていた。
…………………………………………………………
二人はあっという間にゾロの家までたどり着いた。駅からさほど遠くもないし、タクシーを使わなくてはわからないほど道は入り組んでもない。それでも彼は「覚えられない」の一点張りだ。
そんなゾロの『道』に対する無頓着さに唖然とするイオナだったが、驚いたのはそれだけじゃない。
「実家暮らしだったんだ…」
「あぁ、悪ぃかよ。」
てっきり彼の住まいは独り暮らし向けのボロアパートだと思っていたのだが、そこにあるのは大きな門を構えた昔ながらの立派なお家。というよりお屋敷だった。
この門の奥には、広々とした庭に池や、手入れの行き届いた針葉樹があるんだろうと想像し、一人感動してしまう。
「普段は姉貴が車で送ってくれんだけど、今日にかぎって遺跡の発掘に行ってんだよ。」
遺跡の発掘…?ん?ちょっと待って。
「スーパー行ってる」みたいな感覚で言ったよね、今。けど、そんな、いやいや、おかしいだろ!
イオナの頭の中で疑問が乱舞する。それらをなんとか抑え込んだ彼女は、「お姉様のご職業は?」と失礼のないよう問いかけた。
「大学で考古学まなんでるとか教えてるとか。」
「そ、そう…。」
立派なお屋敷の息子さんでありながら、お姉さんもまたまともな人間でありながら、なぜこの人はこんなにも"危うい人間"なんだろうか。
これだけの立派な家に住んでいるならば、スーツの着方や、それに合わせるアクセサリーくらい教えてくれる人も居そうなものだけど。
大きな門の前で小首を傾げるイオナを見下ろし、ゾロは不機嫌そうに眉を寄せる。
「早くいこうぜ、会社。」
「そうだね、いそがないと…」
「まぁ、俺はサボれて万々歳なんだが。」
「これから歩く道、ちゃんと覚えてね。」
ボヤくゾロの声は聞こえているのかいないのか。イオナはずんずんと歩き始める。その後ろでゾロはただひたすらに「腹減った」「眠ぃ」「めんどくせぇ」と呟いていた。
…………………………………………………
なんとか会社についたものの、ゾロはやはり道のりを覚えてはいなかった。それだけじゃない。イオナから漂う甘い香りのせいで、ソワソワしてしまう。
女の匂いは男の敵だ。
特に甘い匂いは意識を持っていれてしまう。
明日の通勤についても不安はあるが、これから毎日この香りを嗅ぐとなるとそれもまた不安だ。そんな宙に浮いた杞憂で溜め息を漏らすゾロだったが。
(なんでみんな俺をみてんだ?)
やけにまとわりついてくる視線があることに気がついた。その全てが好奇の目であるのは明白で、そんなに新入社員が珍しいのだろうかと小首を傾げる。イオナへと視線を向けるが、彼女は緊張した面持ちをしているだけでなんの答えも知っていそうにない。
「お昼、食べていこうか。」
「どこで?」
「この会社、社員食堂があるの。」
「食ってもいいのか?」
「課長が先に済ましてこいって…。」
イオナは頼りない口調でそう言うと、ゾロの服の裾を掴んだ。「ちょっとこっちにきて。」と階段の踊り場に彼を引きずり込むと、困ったような、思い詰めたような表情をする。
「な、なんだよ。」
「いいから、黙ってて。」
壁に背中を付けた彼は、正面に立つ教育係の真剣な顔を見下ろす。妙にその表情が現実的で、なんとなくそんな雰囲気なのかとゾロはたじろいだ。
(どーゆことだよ、これ。)と。
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